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    <title>夏草や　うなものどもが　夢の跡</title>  
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    <description>うなぎさんのダメだったものが陳列されていきます</description>  
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    <title>片手がふさがっているからしょうがない(仮)　　はじめに</title>  
    <description>最近ずっと小説を書いてないので、なんか書こうかと思ったが、特にネタがない。 ネタがないというか、設定は思いついても広がらないから書けない。 適当に書きはじめたが、どうする予定もない。 仕方ないのでネット連載という形をとって、コマ切れに適当に載せていくことにした。...</description>  
    <content:encoded><![CDATA[最近ずっと小説を書いてないので、なんか書こうかと思ったが、特にネタがない。<br /><br />
ネタがないというか、設定は思いついても広がらないから書けない。<br /><br />
適当に書きはじめたが、どうする予定もない。<br /><br />
仕方ないのでネット連載という形をとって、コマ切れに適当に載せていくことにした。<br />]]></content:encoded>  
    <dc:subject>片手がふさがっているからしょうがない(仮)</dc:subject>  
    <dc:date>2009-03-29T14:33:11+09:00</dc:date>  
    <dc:creator>うなぎ</dc:creator>  
    <dc:publisher>NINJA BLOG</dc:publisher>  
    <dc:rights>うなぎ</dc:rights> 
  </item>  
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    <title>1</title>  
    <description>　片手がふさがっているからしょうがないので、学校を辞めることにした。 　とりあえず、親父にその旨を話してみた。殴られるかな、と思ったが、親父はしつこいくらいに「本当にやめるんだな」「後悔しないんだな」と繰りかえすばかりで、特に激昂した様子はなかった。 「本当にやめる」「後悔はするかも知れないけど...</description>  
    <content:encoded><![CDATA[　片手がふさがっているからしょうがないので、学校を辞めることにした。<br /><br />
　とりあえず、親父にその旨を話してみた。殴られるかな、と思ったが、親父はしつこいくらいに「本当にやめるんだな」「後悔しないんだな」と繰りかえすばかりで、特に激昂した様子はなかった。<br /><br />
「本当にやめる」「後悔はするかも知れないけど、後のことなので今はわからない」と素直にこたえたところ、親父は手にとったタバコを吸うでもなく、バラバラに分解しはじめた。<br /><br />
　考え事をしているときに指が寂しくなる落ち着きのなさは、どうやら遺伝らしい。返答をまたされているおれはおれで、意味もなくボールペンをくるくる回していたのだが、手がすべってペンがキッチンの床に落ちたとき、親父は立ち上がって隣の寝室に行った。<br /><br />
　しばらくごそごそしていたかと思うと、戻ってきた親父の手には分厚い封筒がいくつか握られていた。封のされていないそれを逆さにすると、中から札束が五つ、ゴロンと出てきた。<br /><br />
「五百万ある。一応、お前の教育費の予定だった」<br /><br />
　親父は無造作に札束をつかむと、おれの前に「ドン！」と置いた。<br /><br />
　金額的な重みのため、イメージ的には「ドン！」だが、実際の札束はたいして分厚くもないので「べトン」という音だったが、とりあえずおれには「ドドン！」というくらいの存在感があった。<br /><br />
「これはお前にやる」<br /><br />
　急な展開に喜んでいいものかどうか迷っていると、続けてこうも云った。<br /><br />
「だから、三日以内にうちから出て行け」<br /><br />
「それは、勘当ってこと？」<br /><br />
「別にそんなたいそうなもんじゃない。ただ、今後一切、金銭的物質的援助はしない。例えお前が野垂れ死んでもだ。飯もタダでは食わせん。食っていくんなら金を取るし、泊まって行くんならやっぱり金をとる。あとは、いままで通りの普通の親子だ」<br /><br />
「なるほど、普通の親子ですか」<br /><br />
「いやなら学校を辞めるな」<br /><br />
　そんなわけで三日後、おれは無事、高校に退学届けを提出し、とりあえず近場で借りたアパートになけなしの荷物を放りこんで、住みなれた実家を出ることになった。<br /><br />
「じゃあ、そういうわけで、長年お世話になりました」<br /><br />
　いちおう、頭を下げて挨拶すると、親父は「ああ」と頷いた。<br /><br />
「たまには飯を食いに来い」<br /><br />
「金とるんでしょ」<br /><br />
「メニューに関係なく、一律500円でいいぞ」<br /><br />
「じゃあ献立表ちょうだいよ。ワリのいい日だけ、食べに来るから」<br /><br />
「母さんにそんな計画性があると思うのか？」<br /><br />
　お袋がそこで「うふふふふふふ」と笑った。わが親ながら、相変わらず頭がゆるい。愛すべきポイントだとは思う。<br /><br />
「じゃあ、なんとなく察するよ」<br /><br />
「ああ、是非ともそうしろ」<br /><br />
　親父はむだに力強くうなづいた。それから「だがな」と続けた。<br /><br />
「いまさら云うのもなんだが、片手がふさがっているのなんて、たいしたハンデには思えんのだがな。学校を辞めるほどのものか？」<br /><br />
　本当にいまさらの問いに、おれはちょっとこたえに詰まった。そもそも、そういうことは学校を辞める前に云って欲しい。<br /><br />
「うーん、片手がふさがっていることが問題ってよりは、はたからは片手がふさがってるように見えないのが問題って感じかな」<br /><br />
「実際問題、見えないんだからしょうがないだろう。ていうか、本当にふさがっているのか？」<br /><br />
　この親父も、ちょっと変だと思う。そういうことは、最初に疑問に思うべきなのではなかろうか？<br /><br />
「ふさがっているんだよね、少なくとも自分的には」<br /><br />
「見えんがなあ」<br /><br />
「だから、それが問題なんだって」<br /><br />
「でも、学校を辞めるほどのことか？」<br /><br />
「あらためてそう云われると自信がなくなるけど、三日前のおれは、学校を辞めるほどのことだと思ったんだよ」<br /><br />
「だが、おまえはもう高校二年生だったんだぞ。せめて高校くらい出たらどうなんだ？　いままで十年以上も我慢してきて、残りの一年半が我慢できないってのもおかしな話だろう」<br /><br />
「その辺はまあ、いろいろ事情があったりなかったりだよ」<br /><br />
　特にはないけどね。つうか、なんで退学届を出してから云い出すんだ、この親父は。<br /><br />
「正直なところ、おれはお前のその片手がふさがっている云々は、思春期特有のアレかと思っていた」<br /><br />
「アレだと思うよね、やっぱり。おれもそう思ってた」<br /><br />
「実は今でもアレだと思っている」<br /><br />
「おれもそうなんじゃなかろうかって疑ってる」<br /><br />
「でも違うのか？」<br /><br />
「いまんところ、違うっぽい」<br /><br />
「じゃあ、なんだ、今もあるのか、その剣とやらは」<br /><br />
「うん、ちゃんと握ってるよ、左手に」<br /><br />
　親父の視線がおれの左手にうつる。<br /><br />
「&hellip;&hellip;見えんがなあ」<br /><br />
「だよねえ。でもあるんだよねえ」<br /><br />
「思春期特有のアレだと思うんだがなあ」<br /><br />
「でも、物心ついたときからだからなあ」<br /><br />
　親父は、火の点いていないタバコを持った左手で、頭をかいた。<br /><br />
　おれも、剣を持ったままの左手で、頭をかいた。<br /><br />
　お袋は、なんか「うふふふふふ」と楽しそうに笑っていた。<br /><br />
　なんか切り上げ方がわからなくなったので、一緒に「ははは」と笑って、おれは云った。<br /><br />
「じゃあ、まあ、そういうわけで、行くね」<br /><br />
「おう、またな」<br /><br />
　そんな感じで、おれは荷物の詰まった旅行かばんを右手に、物心ついたときから握りっぱなしの剣を左手に、生まれ育った実家を出た。<br /><br />
　それが、大体三ヶ月ほど前のことになる。]]></content:encoded>  
    <dc:subject>片手がふさがっているからしょうがない(仮)</dc:subject>  
    <dc:date>2009-03-29T13:33:42+09:00</dc:date>  
    <dc:creator>うなぎ</dc:creator>  
    <dc:publisher>NINJA BLOG</dc:publisher>  
    <dc:rights>うなぎ</dc:rights> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/63/"> 
    <link>http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/63/</link>  
    <title>INDEX</title>  
    <description>おいてある作品のINDEXです。 作品タイトルをクリックするとその記事に飛びます 左のカテゴリからも跳べます。 なんかまちがった連作メルヘン アトラクシア 自意識過剰な少年の無駄に長い放浪 魔剣、ひろったよ 投げやりＳＦコメディ 起動戦士ニンゲン 空...</description>  
    <content:encoded><![CDATA[おいてある作品のINDEXです。<br /><br />
作品タイトルをクリックするとその記事に飛びます<br /><br />
左のカテゴリからも跳べます。<br /><br />
<br /><br />
<br><br />
なんかまちがった連作メルヘン<br /><br />
<a href="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Category/1/"><font size="5">アトラクシア</font></a><br /><br />
<br /><br />
<br /><br />
自意識過剰な少年の無駄に長い放浪<br><br />
<A Href="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Category/2/"><font size="5">魔剣、ひろったよ</font></A><br><br />
<br><br />
<br><br />
投げやりＳＦコメディ<br><br />
<A Href="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Category/3/"><font size="5">起動戦士ニンゲン</font></A><br><br />
<br><br />
<br><br />
空回り壁ラブコメ<br><br />
<A Href="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Category/4/"><font size="5">バカな壁</font></A><br><br />
<br><br />
<br><br />
ホラーになりびれたちょっといい話<br><br />
<A Href="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Category/5/"><font size="5">くねくね</font></A><br><br />
<br><br />
<br><br />
なんの意味もなく書かれたベタ脚本<br><br />
<A Href="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Category/6/"><font size="5">Ｄ×Ａ</font></A><br><br />
<br><br />
<br><br />
キモメンの独り言<br><br />
<A Href="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Category/7/"><font size="5">彼女が還った夜</font></A><br><br />
<br><br />
<br><br />
なんかちがうピカレスク<br><br />
<A Href="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Category/8/"><font size="5">阿久我大介、昇天</font></A><br><br />
<br><br />
<br><br />
なにかの手違いとしか思えないやおいファンタジー<br><br />
<A Href="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Category/9/"><font size="5">聖王大祭</font></A><br><br />
<br><br />
<br><br />
<br />
気が向いたら増えていきます]]></content:encoded>  
    <dc:subject>このブログの説明</dc:subject>  
    <dc:date>2008-12-26T22:25:29+09:00</dc:date>  
    <dc:creator>うなぎ</dc:creator>  
    <dc:publisher>NINJA BLOG</dc:publisher>  
    <dc:rights>うなぎ</dc:rights> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/62/"> 
    <link>http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/62/</link>  
    <title>聖王大祭　　はじめに</title>  
    <description>長編ファンタジー。たぶんやおい風味。自分なりに。 そうだ、栗本薫風のやおいファンタジー書けばいいんじゃね？ と思いついたのがかれこれ十年前で、すっかり忘れていたのを書き上げてみたのがもはや六年前になるか。 ちゃらっと百枚くらいで書くつもりが説明が下手なために伸びに伸びて三百枚を越してしまい、時...</description>  
    <content:encoded><![CDATA[長編ファンタジー。たぶんやおい風味。自分なりに。<br /><br />
そうだ、栗本薫風のやおいファンタジー書けばいいんじゃね？<br /><br />
と思いついたのがかれこれ十年前で、すっかり忘れていたのを書き上げてみたのがもはや六年前になるか。<br /><br />
ちゃらっと百枚くらいで書くつもりが説明が下手なために伸びに伸びて三百枚を越してしまい、時間はかかるわ出来はひどいわ人には見せられないわで陰鬱な気持ちに陥った。<br /><br />
とにかく説明が下手、語彙に乏しい、文章が固い、無駄に長い、色気がない、ストーリーがしょっぱい、対象読者不明といいところが見当たらないが、これが俺かと言われれば、たしかに俺なので、困ったものだ。<br /><br />
この作品を契機に、雰囲気を出すということをあきらめはじめた。<br /><br />
雰囲気はがんばって出すものではなく、勝手に出るものであるべきだからだ。<br /><br />
それに気づくのに数年間かかりましたとさ。<br /><br />
<br /><br />
<br /><br />
あらすじ<br /><br />
みんながお祭りで大騒ぎしているときに、主人公は「けっ」とかいって陰々鬱々としてぶつぶつ云いながら散歩していたら、あるはずのないところに変な建物を発見したので、勝手に入ってみたらいろいろと大変なことになって惚れたはれたの大騒ぎになったけど、なんだかんだですべてよくなった。<br /><br />
<br /><br />
<br /><br />
目次<br /><br />
<br /><br />
夜の始まり<br /><br />
第一夜<br /><br />
第二夜<br /><br />
第三夜<br /><br />
第四夜<br /><br />
第五夜<br /><br />
第六夜<br /><br />
断章　偽りの世界<br /><br />
最後の夜<br /><br />
エピローグ　はじまりの大樹<br /><br />
<br /><br />
<br /><br />
txt形式でアップしとこうかと思ったけど、めんどうなのでやめた。あんまりここに人来ないし。<br /><br />
読みにくいからtxtで寄越せよ！という人はメールください。そしたらあげます。<br /><br />
アドレスは<a href="mailto:unagisan01@hotmail.com">unagisan01@hotmail.com</a>で。]]></content:encoded>  
    <dc:subject>聖王大祭</dc:subject>  
    <dc:date>2008-03-04T11:45:29+09:00</dc:date>  
    <dc:creator>うなぎ</dc:creator>  
    <dc:publisher>NINJA BLOG</dc:publisher>  
    <dc:rights>うなぎ</dc:rights> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/61/"> 
    <link>http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/61/</link>  
    <title>聖王大祭</title>  
    <description>　その人がバルコニーに姿を現したとき、民衆の熱狂はついに頂点へと達した。 「万歳」 「聖王陛下万歳」 「聖王祭万歳」 「神聖イルナー王国万歳」 「イルナーと陛下に栄光あれ」 「万歳」 　悲鳴とも絶叫ともとれる己が民人の声に、その人は薄紫のマントをひるがえすと、優雅に手を挙げて応えた。 ...</description>  
    <content:encoded><![CDATA[　その人がバルコニーに姿を現したとき、民衆の熱狂はついに頂点へと達した。<br /><br />
「万歳」<br /><br />
「聖王陛下万歳」<br /><br />
「聖王祭万歳」<br /><br />
「神聖イルナー王国万歳」<br /><br />
「イルナーと陛下に栄光あれ」<br /><br />
「万歳」<br /><br />
　悲鳴とも絶叫ともとれる己が民人の声に、その人は薄紫のマントをひるがえすと、優雅に手を挙げて応えた。<br /><br />
　瞬間その人の、のぼる太陽そのものであるかのごとき金の髪が風に揺れて広がり、そこに立つ彼を神話に伝わる大神ローネスの化身であるかのようにすら思わせた。<br /><br />
　人々はみな一瞬息を呑んだ。<br /><br />
　が、すぐにさきほどにも倍する歓声で己達の唯一の主君を迎えた。<br /><br />
「栄光あれ」<br /><br />
「神聖なる王国に、陛下に」<br /><br />
「永遠なれ。陛下の御治世よ永遠なれ」<br /><br />
「万歳」<br /><br />
「聖王陛下万歳」<br /><br />
「聖王万歳」<br /><br />
「神聖イルナー万歳」<br /><br />
　その人が髪と同じ輝く金色の瞳で人々を見渡すと更に歓声は増え、その人がうっすらと微笑みを浮かべると熱狂はどこまでも高まりとどまることが無かった。<br /><br />
　聖都エイルナードの、そして神聖イルナー王国のすべての者がその人に賞賛を与えることを惜しまず、限りない敬意と憧れを持ってその人を見た。<br /><br />
　争乱の時代だった。暗黒の魔道帝国と、それを打ち破った勇者によって成された大イルナー共和同盟の時代は遙か幾百年の昔のこととなった。<br /><br />
　同盟はとうの昔にその効力を失い、決して広くも肥沃でもない土地をめぐり、平原を囲む国々はいつしか争いを始めた。<br /><br />
　幾多の国が滅び、また興りが繰り返される。<br /><br />
　平原最古の歴史と伝統を誇る神聖イルナー王国もまた、戦火を免れることは出来なかった。<br /><br />
　小さな内乱から始まった戦乱の火の手は、またたく間に国中を燃え上がらせ、侵略と謀略の果てついに時の君主、聖王イル・ジャオスまでをもその炎で包み、命を奪い去る。<br /><br />
　絶望のただなかで、神聖イルナー王国の人々は大神ローネスに祈りを捧げた。それよりほかに、できることがなかった。<br /><br />
　神よ救い給え。<br /><br />
　聖なる都を守り給え。<br /><br />
　英雄神リクリスをここへ。<br /><br />
　神の御威光に守られた真なる聖王を遣わせ給え。<br /><br />
　人々の願うはただそればかり。<br /><br />
　願いは成就された。<br /><br />
　先の聖王イル・ジャオスの第三子にして第一王位継承者、金の髪と金の瞳に彩られた美貌を持つ、神聖イルナー王国第十七代聖王。<br /><br />
　名を、イル・サイナス・ラフォン・トリータ一世。<br /><br />
　それが、その人だった。<br /><br />
　即位よりいくらも経たず、人々は口々にその人を崇め讃えた。<br /><br />
　あの御方には神の御加護がついている、と。<br /><br />
　即位より一月。<br /><br />
　大軍を揃え侵略の構えを見せていた大国セイランは内乱により二つに分かれる。<br /><br />
　即位より三月。<br /><br />
　常に虎視眈々とイルナーを窺い、国境に軍を展開していた隣国リンクラウドはフォトキアの侵略により軍を撤退。更にイルナー側に非常に有利な条件での一時休戦を申し込んでくる。<br /><br />
　即位より半年。<br /><br />
　密かに海岸からのイルナー侵略を企んだシェムス連合の大船団は、季節外れの嵐に遭遇し壊滅。戦わずして撤退した。<br /><br />
　すべてが、この調子だった。<br /><br />
　イル・サイナスの即位より、イルナーはただの一度も戦乱に巻き込まれることはなく、相次ぐ戦乱の中イルナーのみが平穏な時を過ごし、ついには十年が過ぎた。<br /><br />
　十年もの月日を戦乱と無縁でいること、それはこの時代には奇跡だった。<br /><br />
　だからこそ、誰もが彼を讃える。<br /><br />
　聖なる王、イル・サイナス・ラフォン・トリータ一世の聖王祭を国中のものが心から祝うのだ。<br /><br />
　しかし<br /><br />
（ふん。何が聖王祭だ）<br /><br />
　非常に数少なくではあったが、イルナー国内、それも聖都エイルナードにも、聖王祭を祝わないものが存在した。<br /><br />
（何が聖王祭だ。何が聖王だ。何が&hellip;&hellip;）<br /><br />
　聖王祭とは、聖王が即位した日を祝う祭りである。<br /><br />
　聖王祭の日は、一年間国を守ってくれた聖王に感謝の意を捧げ、また次なる一年の聖王の加護を求める日であり、国中をあげての祭りとなる。<br /><br />
　特に五年ごとの祭りは大祭と呼ばれ、七日をかけて祝う盛大さだ。今日はイル・サイナスの即位より十年。イル・サイナスにとっての二度目の大祭、その一日目となる。<br /><br />
　聖王祭の日は、普段は貴族とその許しを得た者以外の出入りは厳禁とされる聖王区が特別に一部解放される。<br /><br />
　人々は我先にとその場所、〈リクリスの掌〉と呼ばれる大広場に集まる。<br /><br />
　中には祭りの数日前より仕事を放り出し、聖王区の入り口の門の前で幾晩も夜を徹し、祭りの日が来ると同時に広場の中へと他者を押しのけ駆けつける者も少なくない。<br /><br />
　なぜなら、庶民にとって天上の神にも等しい聖王の姿を見る、ほとんど唯一の機会であるからだ。<br /><br />
　聖王祭の日、太陽がちょうど聖王城の真上にかかったとき、聖王は民衆の前に姿を現すしきたりとなっている。<br /><br />
　と云っても、城の最も広場に面したバルコニーに立つだけであり、広場にいても後ろのほうは王の姿は見えず、見えても誰かを判別することはまず不可能である。<br /><br />
　だがそれでも、民衆は彼らの聖王を一目見んとして、夜を徹し少しでも王に近づける場所を求める。<br /><br />
　そういった儀式も終わり、今は夜、聖王大祭の第一夜がようやく終わろうとしている。<br /><br />
　空には聖王を祝福するように満天の星が輝く刻限となったが、人々の熱狂は少しも冷めやる気配はない。<br /><br />
　まだ大祭は一日目、祭りはこれからだ。大祭ともなると、七日間ほとんど眠らず騒ぎ続ける者もいるほどなのだ。夜も昼も、関係ない。<br /><br />
　それが疎ましいと、彼は思った。<br /><br />
（何が聖王祭だ。何が聖王だ）<br /><br />
　彼とてこの国に生まれ、この国に育った者だ。聖王への忠心というものはある。<br /><br />
　むしろ一月ほど前には人一倍忠誠あついほうだと云えた。<br /><br />
　神聖イルナー王国を信じ、大神ローネスの加護を信じていた。<br /><br />
　だが<br /><br />
（この国が神の庇護下にあると云うのなら、なぜ彼女は死んだのだ。なぜ咎人がのうのうと逃げおおせているのだ）<br /><br />
　それを思うと、とても聖王祭を祝う気になれぬ。<br /><br />
　街のあちらこちらで大声でがなりたてられる聖王を讃える声も疎ましい。<br /><br />
　そう思えばこそ、誰もが厭う祭りの日の王城警護に志願したのだ。<br /><br />
　しかし、国をあげての祭りの騒乱が、普段は静まり返った城の内にまで轟き響いていたのは彼の誤算だった。<br /><br />
（大丈夫なのかこの国は）<br /><br />
　大神ローネスの加護を信じ切っていた一月前では思いもしなかったことが彼の頭に去来する。<br /><br />
（この浮かれ騒ぎの隙を他国に突かれでもしたら&hellip;&hellip;）<br /><br />
　無論、それは考慮され国境地帯の警備には貧乏くじを引いた兵士たちにより通常に倍する兵力が配されていることは彼も知っている。だがこの騒ぎを見聞きしていると、それすらも無意味に思えてくるのだ。<br /><br />
「なにも異変はないか」<br /><br />
「はっ。ありません」<br /><br />
　声をかけられた若い警備兵が、驚いたように身を震わせて答えた。<br /><br />
　気が緩んでいる。それに、見回す限りに見える警備兵は、どれもひどく年若い者か、逆に年老いた者に見える。<br /><br />
　貧乏くじを引かされるのは常に力のないものと決まっているのだ。<br /><br />
　彼と同年代の者たちは、祭りに加わり楽しくやっているのだろう。国境地帯も似たようなものではないだろうか。だったら、倍する兵力が配されていたとしても無意味だろう。<br /><br />
（まったく、どいつもこいつも）<br /><br />
　だが昨年は彼もその一員であったのだ。それを忘れたわけではない。<br /><br />
　しかし込み上げてくる怒りは隠せぬまま、彼は足早に歩いた。<br /><br />
　どこへと目的地があるわけではない。少しでもこの喧噪の少ない場所へ行きたかった。<br /><br />
　輝く白銀の近衛兵正装に身を包んだ特殊警備隊の彼を咎め立てる者は一人としてなく、彼は聖王城の奥へ奥へ、普段彼とて足を踏み入れぬ場所へと進んでいた。<br /><br />
（ここは&hellip;&hellip;）<br /><br />
　つと、彼は足を止めた。<br /><br />
　気がつくと、喧噪は遙か遠く微かに聞こえるだけとなり、辺りには数少ない警備兵がいるだけであった。<br /><br />
「おい、ここは&hellip;&hellip;」<br /><br />
　彼は手近にいる警備兵に声をかけようとして、やめる。<br /><br />
　不謹慎なことに、警備兵は居眠りをしていた。<br /><br />
　叩き起こし叱りつけようかとも思ったが、まだ少年じみた警備兵の顔を見るとその気も失せた。<br /><br />
　それに、人と話したい気分では到底ない。<br /><br />
　こんな何もない場所へ来るものもありはすまいし、見なかったことにしようと彼は決めた。ここがどこなのかと訊こうと思っていたのだが、すぐにそれも知れたことだ。<br /><br />
　聖王城の中にあって、喧噪から遠く警備の薄い場所と云えば一つしかない。<br /><br />
〈神の庭〉である。<br /><br />
　王城の奥深くの門をくぐると突然開ける緑の庭は、神の庭と呼ばれる場所であり、代々何人も立ち入ることを固く禁じられている場所なのだ。<br /><br />
　その禁令は強く、命を発した聖王自身ですらここに立ち入ることはないと云う。<br /><br />
　王は云う。<br /><br />
〈神の庭〉はすでにイルナーではなく、神の領土であるのだ、と。<br /><br />
　事実、ここに入った者があると彼は聞いたことがない。<br /><br />
　庭は草木や花咲き乱れる場所であるが、それを手入れする者すらおらず、しかし草花が枯れることは決してない。まさしく神の領土であるのだ。<br /><br />
　いつのまにここまで迷いこんで来たのだろうか。彼は近衛兵ではあったが、ここまで来るのは初めてのことだった。<br /><br />
　来る用事もないし、そもそも本来ここまで入り込むことはできない。<br /><br />
　途中で誰何され止められるのが関の山だ。<br /><br />
　今日のような祭りの日に、特殊警備隊の任に着いていればこそ来れたのだ。<br /><br />
（しかし、噂通り何もないな、この辺りは）<br /><br />
　夜であるから門は閉じられ辺りには眠っている少年兵一人だけで、長い通路にはかがり火のほか何もない。<br /><br />
　静寂を求めてやってきた彼の要望にこれほど答えてくれる場所があるとは彼自身思わなかった。<br /><br />
（この門の向こうが、噂の神の庭か）<br /><br />
　一月前の彼ならば、そうは思わなかったかもしれない。<br /><br />
　あるいは思っても行動に移すことはなかったかもしれない。<br /><br />
　彼は人一倍真面目な、それこそ同僚にからかわれるほど朴訥で信仰篤い青年であったから、たとえわずかでも神に逆らうようなことはしようともしなかったはずである。<br /><br />
　しかし今の彼は聖王祭を祝う気にもなれぬ絶望の中にあった。<br /><br />
　大神ローネスも、聖王イル・サイナスも、いまの彼にはほとんどどうでもよく感じられた。<br /><br />
　あるのはただ好奇心だけだ。<br /><br />
　噂に名高い永遠に枯れることのないという神の庭を一目見てみようと云うだけの。<br /><br />
　彼は眠る警備兵を起こさぬよう気をつけながら両開きの門をゆっくりと開けた。<br /><br />
　夜の中、明かり一つ灯らぬ神の庭は暗闇。<br /><br />
　その中に浮かび上がるのは荒れ果てた土地だった。<br /><br />
（なんだ、どうなっているんだ）<br /><br />
　自分の目を疑った。そこにあるのは草木豊かに実り、一年を通し花咲き乱れると伝えられる神の庭ではなかった。<br /><br />
　荒れ果てた、長いこと人の手の入った様子のない土地だった。<br /><br />
（間違ったか）<br /><br />
　しかし聖王城の中に禁じられた静寂の地が二つとあるわけがない。<br /><br />
　それ以前に、このような荒廃した場所が伝統と文化を誇る神聖イルナー王国の聖都エイルナードの、それも聖王の住まう城に存在するはずがない。<br /><br />
（どうなっているんだ）<br /><br />
　彼は思わずそこに足を踏み入れた。<br /><br />
　ごつごつとした石の感触と、整備されていない地面の感触があり、目に見えているものが幻影でないことを告げていた。<br /><br />
　城下ではこうこうと焚かれている明りも、ここには微塵もない。<br /><br />
　さきほどまで彼の上で輝いていたはずの星々は月に隠れでもしたのか、ふと見上げた空は真黒く、周囲は真の暗闇であった。<br /><br />
　振り向くといつのまにか門は閉じられていた。<br /><br />
　気がつくと、彼は自分がどこにいるのかを忘れるほどの暗闇の中にいた。<br /><br />
（さきほどまで微かに聞こえていた喧噪もまるきり聞こえない。何もかもが見えず聞こえず、こうしてここにいると、全てが虚無へ消え去ったようだ。いや、それとも最初から何もなかったものを、何かの手違いで有ると感じていただけかも知れない。イルナーも聖王も聖王祭も、この俺も世界そのものすら、最初から何もなかったのではないか）<br /><br />
　彼女も、そして一月前のあの惨劇も。<br /><br />
（違う）<br /><br />
　彼は暗闇の中で短く鋭く首を振った。<br /><br />
（これは逃避だ）<br /><br />
　自分は理由をつけて逃げようとしている。彼女のことをなかったことにし、あの苦しみの記憶を消去しようとしている。<br /><br />
　だが、事実は彼女は存在し、死んだのだ。<br /><br />
　一月前、彼の目の前で。<br /><br />
　その事実を認識するのが辛くて逃避しようとしているのだ。<br /><br />
　それでも逃避するわけにはいかない。彼女の仇をとるまでは。<br /><br />
（そうだ、奴らにしかるべき復讐を為すまでは）<br /><br />
　その奴らとは何者なのかをすら、彼は知らない。<br /><br />
　彼は何も瞳に映さぬ暗闇の彼方へ、かぐろい炎を孕んだ眼差しを注いだ。暗闇の彼方に憎むべき奴らがいるかのように。<br /><br />
　彼の瞳が暗闇の向こうに捉えたのは、ひどく年経た石造りの壁であった。<br /><br />
（なんだ、あれは）<br /><br />
　つい先程までここに有ったのは、荒れ果てた土地と暗闇だけのはずだった。それが突如、としか云いようが無い。<br /><br />
　塔があった。<br /><br />
　すぐにそれが塔だと知れたわけではない。最初闇に浮かび上がるように古い苔むした石の壁が彼の前にあり、驚いた彼は自身にもわからぬままとっさに空を見上げた。<br /><br />
　空にはいつのまにか雲が動いたのか、再び星が輝き、その天に吸い込まれるように石の壁が湾曲を描き伸びていた。<br /><br />
　一度認識すると、薄闇の中でその建造物は異様なまでの存在感を示していた。<br /><br />
　光が有るわけではない、むしろ逆だ。<br /><br />
　その建物の周りだけ、闇が濃かった。<br /><br />
　わずかな星明りをすら拒むように、まるで闇そのものが物質的な重みを持って凝固した存在であるかのように、その建物は暗く重くそれゆえに薄闇の中でひときわ目立っていた。<br /><br />
　それは螺旋塔であった。<br /><br />
（螺旋塔なんて&hellip;&hellip;そんな馬鹿な）<br /><br />
　螺旋塔の存在は基本的に禁忌である。<br /><br />
　遙かな魔道の時代、魔道士達が好み住んだのが、螺旋塔であった。<br /><br />
　外壁がねじれながら天に上がると云うその形状そのものが魔道の装置であり、魔道に不可欠な建造物なのだ。<br /><br />
　だからこそ、魔道文明を完全に廃したうえで築かれた大イルナー共和同盟の末裔である現在の平原の国家には、螺旋塔があるはずはない。<br /><br />
　かつて存在した多数の螺旋等は破壊され、新たな螺旋塔の建造もローネス教の教義によって禁止されている。<br /><br />
　ましてや彼がいるのは大イルナー共和同盟の盟主である神聖イルナー王国の首都、ローネス教の総本山をも近郊に構えた聖なる都エイルナードのそのまた中枢、聖王城であるのだ。<br /><br />
（ありえない）<br /><br />
　平原に現存する螺旋塔は五つ。<br /><br />
　いずれもローネス教の管理下にあり、エイルナードには、ない。<br /><br />
　しかしだとすれば、彼の前にそびえるこれは何だ。<br /><br />
　暗く重く、彼の前に歴然とした存在感を示し存在するこの螺旋塔は何だ。<br /><br />
（ありえない、しかし）<br /><br />
　彼は塔に歩み寄った。<br /><br />
　一歩進むごとに体が闇に浸されていくように感じられた。<br /><br />
　もし見ている者がいたなら、彼が闇に飲み込まれ、この世界から消え去ったと思ったかも知れない。<br /><br />
　だが、ここには彼のほかに一人もなく、物音一つせず、ただ時に強くなり弱くなる星の輝きと怪しげに揺らぐ月の光だけがあった。<br /><br />
　まったくの暗闇の中から、浮かび上がるようにこれもまたやはり古びた鉄の扉が現れた。<br /><br />
　扉の表面には複雑な曲線を描いた文様が無数に刻まれており、そのいずれもが彼には見覚えもないものであった。<br /><br />
（もし、境界の扉があるとするならば、それはこうしたものなのかもしれないな）<br /><br />
　いつも通りに開けたいつもの扉が、ときに幽世へとつながっていることがあるという――イルナーに住む者ならば誰でも知っている怪談だ。<br /><br />
　彼も幼心にそれをひどく恐ろしいと思い、扉を開くたび、あるいはもしやこれこそが境界の扉なのではないだろうかと、密かにそう怯えたことも少なくない。成長するにつれいつのまにか、そんな恐れもなくしていたが。<br /><br />
（だがもし&hellip;&hellip;もしこれこそが境界の扉であり、俺をこの生者の世界から死者の世界へと連れ去ろうとしているのならば&hellip;&hellip;。いま俺の前に現れたのは偶然ではない、そうだろう、フェミナ）<br /><br />
　胸の中でそっとつぶやくだけでも、その名を思うと彼の心はひどく痛んだ。<br /><br />
　その痛みが彼を境界の向こうへと誘っているようだった。<br /><br />
　彼は扉に手を当てると、力を込めた。<br /><br />
　扉はそれほど大きくはなく、大の大人が一人通れる程度であったが、見た目に反してひどく重かった。<br /><br />
　若く、いかにここ最近は自暴自棄に陥っていたとはいえ元々鍛えられていた彼の力を持ってしても一息に開くことは難しく、扉は長いこと開くものがいなかったことを示すように重く錆ついた音をたてながらゆっくりと開いていった。<br /><br />
　闇というものはどこまで深くなれるものか、塔の中では、また一段と重く闇がこごっていた。<br /><br />
　闇はこの世の光という光を拒んでいた。<br /><br />
　それをむしろ心地よいと感じ、彼は闇の中へと身を投じた。<br /><br />
　無論、その扉は現世と幽世を隔てるものでなどありはしない。<br /><br />
　だが、ある意味においてはそれはまさしく境界となる扉であった。<br /><br />
　この扉をくぐったときより、彼は今までとは異なる世界へと住まうことになった。<br /><br />
　いや、その世界はもとより確かに存在し、ただ彼ら一般の者が見ることの叶わなかっただけであるのだから、彼が異なる世界の相を見ることになった、というのが正しいであろう。<br /><br />
　いずれにしろ、彼はここから禁忌の世界へと足を踏み出した。<br /><br />
　その禁忌の名を、魔道と云う。]]></content:encoded>  
    <dc:subject>聖王大祭</dc:subject>  
    <dc:date>2008-03-04T11:26:22+09:00</dc:date>  
    <dc:creator>うなぎ</dc:creator>  
    <dc:publisher>NINJA BLOG</dc:publisher>  
    <dc:rights>うなぎ</dc:rights> 
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  <item rdf:about="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/60/"> 
    <link>http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/60/</link>  
    <title>第一夜</title>  
    <description>　塔は決して大きくはなかった。 　神の庭自体がそれほど面積のある場所でないのだから当然ではあるが、塔の中は細く長い螺旋状の階段と、各階に一つずつ部屋が配されているだけの質素な造りであった。 　部屋は庶民が住む家屋の部屋と同程度の大きさしかなく、ここが聖王城の一部であると云うことを考えれば異様なほ...</description>  
    <content:encoded><![CDATA[<p>　塔は決して大きくはなかった。<br /><br />
　神の庭自体がそれほど面積のある場所でないのだから当然ではあるが、塔の中は細く長い螺旋状の階段と、各階に一つずつ部屋が配されているだけの質素な造りであった。<br /><br />
　部屋は庶民が住む家屋の部屋と同程度の大きさしかなく、ここが聖王城の一部であると云うことを考えれば異様なほどの狭さであると云える。<br /><br />
　だが、その部屋にある物は決して庶民の家にはないものばかりであった。<br /><br />
（いったい、なんなのだここは）<br /><br />
　さすがに闇ばかりでは何も見えぬ。<br /><br />
　彼は非常用のランタンに火を灯し、塔の中を進んだ<br /><br />
　ランタンは実用性の高い、小型だが明りは非常に強いもので眩しすぎるくらいだと普段は文句をつけられるほどのものだったが、いまは濃い闇の中で闇に押しつぶされそうに不安げにかよわく炎が揺れている。<br /><br />
　小さな炎が浮かび上げる情景は、彼には理解のし難いものだった。<br /><br />
　塔内の壁は、確かに石造りであった。だが、外の壁と違い石を積み上げたものではない。<br /><br />
　触ると確かに石のざらついた手触りを伝えてくるのだが、表面にまったく凹凸がなく、石と石の境目というものがなかった。<br /><br />
　一つの大きな岩の中をくりぬき、丁寧に磨き上げでもしたら、こうなるであろうかという具合だ。<br /><br />
　不可思議な壁に囲まれて螺旋状に伸びる階段は細かったが、際限なく長かった。<br /><br />
　所々にある入り口と同じように謎の模様の彫り込まれた、しかしこちらは木製の扉にはいずれも鍵はかかっておらず、開いて中を覗いてみれば、浮かび上がるのはいずれも無人の、怪しげな品々であふれかえった部屋だった。<br /><br />
　最初に開いた部屋には無数の書物が散乱していた。<br /><br />
　部屋の四方にはきっちりと書棚が並べられており、そのほとんどを書が埋めていたが、所々空いているのは、床に広がる書物のせいであると見えた。<br /><br />
　一つ二つを手にとって開いてみたが、いずれも彼には理解のできぬ言語で書かれていた。見たこともない、平原のものとは思えぬ不可思議な言語であった。<br /><br />
　平原の言語はほとんど全てが直線を組み合わせた幾何学的な模様を描くはずであるのに、書物に書かれているのは直線と曲線が複雑に入り混じる不思議な言語だった。<br /><br />
　次に開いた部屋には、奇妙な平原風でない曲線を描いた滑らかな手触りの、古いが手入れの行き届いた机と椅子が一組あり、机の上には拳大ほどの大きさの透明な球体があった。<br /><br />
　彼ははじめその球体を水晶かと思い、、ランタンの明りを近づけてみた。<br /><br />
　するとその珠の中で炎がゆらめいたかと思うと、すぐに炎は四散し、珠の中には万華鏡のようにいくつにも分かれた炎が奇妙な模様を描いてはすぐに形を変え、二度とは同じようには映らなかった。<br /><br />
　そして最も奇妙なことには、その後明かりをいくら遠ざけようとも、その球体に灯った炎は消えることがなかった。<br /><br />
　次の部屋にあるものは彼にも理解できるかと思われた。無数の剣が規則正しく立てられていたのだ。<br /><br />
　剣はいずれも金や銀の鮮やかで緻密な装飾がなされており、そのいずれもが華麗で宗教的でとてもイルナー的なものであった。彼は知らず安堵の吐息を漏らした。<br /><br />
　だが、違和感を感じ、明かりを当てて一本一本をよく見てみると、違和感を感じるのもどうりで、剣はいずれも刃引きしてあった。<br /><br />
　儀式用か装飾用か、と思ったが、次に手にとった剣は先程と同じように刃引きしてあるにもかかわらず、刃にはいくつもの血糊がこびりついていた。<br /><br />
　そうした剣はいくつもあり、ついた血糊にはひどく古びたものや逆にまだ血も乾いておらぬものまである。<br /><br />
（わからない&hellip;&hellip;。なんなのだここは。何もかもが理解できない。それに、真新しい血のあとまであると云うことは&hellip;&hellip;）<br /><br />
　血の臭いがつんと鼻をついた気がした。吐き気を感じたが、しかし近々ろくに食事をとってもいない胃は吐き出すものもなく、彼は身を曲げながらその部屋を出た。<br /><br />
　帰りたい、と彼は思った。だがどこに彼の帰る場所があると云うのか。<br /><br />
（フェミナ&hellip;&hellip;フェミナ）<br /><br />
　愛しい名を唇には乗せずつぶやく。<br /><br />
　進む先には闇、だが振り返るそこにあるのもまた闇であった。<br /><br />
　彼はなお塔を上った。<br /><br />
　上る階段は果てしなく、闇は更に深さを増し、彼の手に下げられたランタンの明かりなどは今にも消え果てそうに見えた。<br /><br />
　ここは理解できない。手に負えない。そう思ったならば本部に戻り、隊長に報告した上で判断を委ねれば良いのだが、しかしそういう気にはなれなかった。<br /><br />
　なぜかと問われても彼自身にも分からない。使命感とも義務感ともつかぬ、とにかくもこの塔を上りきらねばならぬ、という奇妙な思いが彼を捕えていた。<br /><br />
　部屋を一つ一つ調べるのは、もはや諦めた。<br /><br />
　いくら調べても彼には理解ができないし、塔はどこまでも続いていたからだ。<br /><br />
（誰かいないのか、それを確かめなくてはならない）<br /><br />
　乾かぬ血のついた剣から推察するに、少なくとも遠くない時間にこの塔を訪れた者がいるはずだ。<br /><br />
　その者はあるいはまだこの塔の中にいるかもしれない。<br /><br />
　いや、いる公算のほうが高いだろう。<br /><br />
　彼は、周囲の気配に注意しながら塔を上り続けた。<br /><br />
　だがいくら上っても何者の気配もない。<br /><br />
　ふと覗く部屋の中には得体の知れないびろうどのような布や、見知らぬ文様の旗、一番ひどいときには見たこともない一つ目の生物の死骸が硝子瓶の中からこちらを見ていたりしたがそれだけで、生きているものは虫一匹たりとて存在する気配はなかった。<br /><br />
　どれほど昇り続けたであろうか。<br /><br />
　彼は自分が丸一日もこの階段を昇り続けているような気持ちになってきた。<br /><br />
　実際にどれほど経っているのかは分からない。<br /><br />
　塔の中は用心深くとすら云えるほどに外界からの光を完全に遮断しており、いまがまだ夜なのか、あるいはもう日は昇っているのか、それとも昇った日も再び沈んだ後であろうか、それすらも分からない。<br /><br />
（そして、男が再び太陽の下へその姿を晒したときには、大いなる都は完全に潰え、その廃虚すらも深い砂塵の下にただ身を横たえるのみであった）<br /><br />
　とある迷宮に迷い込んだ旅人が、艱難辛苦の果てにそこを脱出すると、外の世界では幾百幾千の時が流れていたと云う。<br /><br />
　それは、どこの逸話であったろうか。<br /><br />
　幼い日の記憶は他人事のように遠すぎて、もはやよく覚えてもいない。<br /><br />
　彼は己を笑った。<br /><br />
（どうしたことか、境界の扉といい、今日はよくくだらない説話を思い出す。そんなものより、現実のほうがよっぽど容赦もなければ恐ろしくもあることを知る歳にはなったろうに）<br /><br />
　乾いた口には出さぬ笑いに吹かれたように、ランタンの炎はひととき強く輝くと、突然ふっと消え去った。それでは、油が尽きるほどには塔をさまよったということか。<br /><br />
　予備の燃料など用意していない。今度は何も身を守る術も持たぬまま、彼は再びまったくの暗闇の中に立たされた。<br /><br />
（進むも闇、戻るも闇、どちらに行こうが、同じことか）<br /><br />
　彼は自嘲的な笑いを、今度は声に出してあげた。<br /><br />
　その時、気づいた。<br /><br />
（光&hellip;&hellip;）<br /><br />
　彼の前方上、いまいる場所からあといくらも階段を昇ったところに、薄く青い光があった。<br /><br />
　光があまりにもわずかなものであったため、炎の赤に紛れ今までは気がつかなかったのだ。<br /><br />
　塔の中に入ってより、初めて彼が目にするランタン以外の明かりだ。<br /><br />
（明かり&hellip;&hellip;扉が、ある）<br /><br />
　闇に多少目が慣れてくると、その青光が閉じられた扉から漏れているものだとわかる。<br /><br />
　扉の向こうに何かある。あるいは何者かがいるやもしれない。<br /><br />
　彼は慎重に、壁に手をつきながら一段一段闇の中を光目指して昇っていった。<br /><br />
（耳鳴り。&hellip;&hellip;いや、違う）<br /><br />
　感じるが聞き取れぬ、得体の知れぬ音が彼の耳に響き始めた。<br /><br />
　足が重い。闇が物質的な重さを持って粘ついているようだ。<br /><br />
　嫌な予感を感じた。というよりは、最前よりずっと感じていた悪寒が、ついに無視することのできぬほどに膨れ上がっていた。<br /><br />
　引き返せ、いまからでも遅くない、帰れ、彼の本能がそう告げていた。<br /><br />
　だがそれは過ちだ。すでに彼は絡めとられ逃れることなどできはしない。<br /><br />
　ついに彼は青光の漏れる扉の前に立った。<br /><br />
　そしてそれはどこまでも続くかと思われた螺旋階段の終点でもあった。<br /><br />
　どれほど昇ったのか、彼はついに塔の最上階へ立ったのだ。<br /><br />
　手を伸ばすと、扉は彼の手に触れぬうちに自ずから開いた。<br /><br />
　その瞬間、彼は青い光に包まれながら、その人を見た。<br /><br />
（陛下）<br /><br />
「誰&hellip;&hellip;だ」<br /><br />
　かすれた声だった。<br /><br />
　彼はとっさにその場にひざまづくと臣下の取り得る最上級の敬意を示す礼をした。すなわち、携えた剣を手早く外すと床に置き、その手前の床に己の頭をつけた。<br /><br />
　そのまま告げる。<br /><br />
「近衛隊所属、クライ・ローデンスと申す者でございます。今宵特殊警備隊の任に着き、王城内を警護いたしておりましたところ、見慣れぬ建物を見つけ、いかなるものかと調査に参りました」<br /><br />
　口早に告げそのまま黙って身動き一つせず次の言葉を待った。その人は何を思っているのか、しばし沈黙した後、云った。<br /><br />
「&hellip;&hellip;顔を上げよ」<br /><br />
　その声もかすれた小さなものであった。まるで老人のように。<br /><br />
　だがいいしれぬ威厳をもまた備えている。<br /><br />
　人の上に立ち、導くことに慣れ、それを当然と捉えているものの持つ威厳だ。<br /><br />
（なぜ、ここに&hellip;&hellip;）<br /><br />
　その人を、彼は近くでしかと見たことはない。<br /><br />
　近衛兵とはいえ、所詮彼は一兵卒にしか過ぎず、その人は生きながらにして天上の人であり、彼もまた遠くから太陽を見るようにその人を仰ぎ見るばかりであった。<br /><br />
　だが、それでもその人を見まごう者など国内のどこを探してもいまい。いかに彼が絶望の最中にあっても、その人を前にして礼を失うことはできなかった。<br /><br />
「御前に私のごとき卑しき身の者が姿を晒し、御尊顔を拝する無礼をどうぞお許しくださいますよう、その平原よりも広く太陽のごとく暖かなる御心に御願い申しあげます」<br /><br />
　神聖イルナー王国で最も尊き人、地を治める平和の具現者、その人。<br /><br />
「地上にただひとかたなる我と民人の主君、神聖イルナー王国第十七代&hellip;&hellip;」<br /><br />
　かさかさかさ――<br /><br />
　言葉をさえぎる枯れ草を揺らしたような音が、その人の笑う声だと気づいて、彼は戸惑い顔を伏せたまましばし口を閉ざした。<br /><br />
「何を思い違いしている。口上はよい、顔を上げよ。そしてしかと私の顔を見るがよい」<br /><br />
「恐れながら&hellip;&hellip;」<br /><br />
　彼は顔を上げ、そして見た。<br /><br />
　広い部屋だった。いかなるからくりか、その部屋は塔の今まで見たどの部屋よりも遙かに大きく、円を描く形で広がっており、天井も高かった。これこそが、聖王城に本来あるにふさわしい広さと云えた。<br /><br />
　しかし飾られているのは、高名な画家の描いた絵画の代わりに自ら青く光る奇妙な巨大な硝子板――これが先程からの光の正体であった――であったり、英雄神リクリスをかたどる彫刻の代わりにおぞましい三つ目の巨大な毛むくじゃらの怪物の生きているかのような剥製であったりした。<br /><br />
　奇妙なものばかりであり、あまりに無秩序で統制されていなかった。それらの共通点は一つだけである。<br /><br />
　いまこの世界には存在してはいけないはずのものである、という。<br /><br />
　それら禁忌のものに囲まれて、幽鬼のごとく立っているのは&hellip;&hellip;<br /><br />
（違う）<br /><br />
　黒い影に溶け込むように立っているのは、一人の老人だった。<br /><br />
「どうした。いつまでそんなところに座り込んでいる。入ってくるがよい」<br /><br />
「&hellip;&hellip;はい」<br /><br />
　呆然としながらも、彼はそうあるべく日頃仕込まれているように、動揺を最大限押し隠し、老人の言葉に従い立ち上がり室内に歩を進めた。<br /><br />
　部屋に入るとすぐに、後ろの扉が音もたてず閉まった。<br /><br />
「私の顔が見えるか」<br /><br />
「はい」<br /><br />
　あの硝子板の光で室内の大体の様子は知れる。<br /><br />
「では、お主の思い違いも理解したか」<br /><br />
「&hellip;&hellip;はい」<br /><br />
　今となっては、いったいどこをどう見間違えたと云うのか、そこに立つのは、聖王イル・サイナスとは似通うところ一つない老人である。<br /><br />
　似ているはおろか、むしろ正反対の存在とすら云えた。<br /><br />
　聖王イル・サイナスは、その為政者としての才覚とともに美貌の人としても知られていた。<br /><br />
　王子であった頃から非常にイルナー王族的な、線の細い美少年であると云われていたが、十八で即位するときにはその美貌は地に並ぶものなきと評されるほどとなっていた。<br /><br />
　しかもその美貌は歳を重ねるごとにますます輝きを増していくのだ。<br /><br />
　腰までもある艶やかな金の――まさしく金色としか云えぬ――髪は太陽のごとく自ら光を発しているようであった。<br /><br />
　一点の曇りもない金の瞳はすべてを見通しているようでありながら、許しと慈愛に満ちていた。<br /><br />
　肌は透き通るように白く傷一つとしてなく、また傷つけることも不可能に思われるほどになめらかで、その肌の上にすっと筆で描いたように奇麗な朱をひく薄い唇も、鋭く意志強さを感じさせる眉も、これが正しい、最も美しい、人のありかたであるのだと人々に思わせる。<br /><br />
　白と紫を基調とし、そこに金糸で美しく緻密な刺繍がいくつも入った聖王衣は、平原随一と云われるイルナーの文化の髄を極めた豪奢で鮮やかなものであったが、それを身に着ける人のほうがなお輝いていた。<br /><br />
　それでいて弱さを感じさせると云うことは決してなく、逆らいがたい威厳と強さをもまた持っている。<br /><br />
　聖王イル・サイナスは、まさしく聖なる王であり、王となるべくしてなった人だと誰もが云った。<br /><br />
　先王の第三子であり、王位継承権もまた第三であったサイナス・トリータが、兄王子の相次ぐ不幸により王になったのは、運命であると人々は噂した。<br /><br />
　二人の兄王子が民衆に厭われていたわけではない。<br /><br />
　第一王子ギルアス・ロードは多少素行の悪さで知られてはいたが、同時に勇猛な武将であり、常に前線に立ち軍を指揮する姿は民衆の目に頼もしくうつった。<br /><br />
　第二王子カイラス・ツィーズは物静かではあったが、目には深い知性をたたえ、詩吟に通じ、文化の国であるイルナーの一方の象徴とも云える人であった。<br /><br />
　二人とも方向は異なるとはいえ、聖王家の人間としてふさわしいだけの美貌とカリスマは持っていた。<br /><br />
　それでも、違う、違ったと、いまとなっては民衆の誰もが思う。<br /><br />
　彼らは聖王となる運命にはなかった、と。<br /><br />
　二人の兄王子に非はないし、その死は悼むべきことではあったが、しかし違う。<br /><br />
　二人と聖王イル・サイナスとは、あまりにも《違う》。いや、イル・サイナスがほかのいかなる人間とも《違いすぎる》のだ。<br /><br />
　イル・サイナスは、一つの世世界であった。<br /><br />
　イル・サイナスが微笑めば、国もまた微笑むだろう。<br /><br />
　イル・サイナスが怒りに震えれば、国もまた怒りに震えるだろう。<br /><br />
　イル・サイナスはつまり、そういう存在なのだ。<br /><br />
（その、聖王陛下と&hellip;&hellip;）　<br /><br />
　自分のことでありながら、彼はまったく不思議であった。<br /><br />
　姿を見たのは一瞬とはいえ、なぜ目の前に立つ老人を主君であるなどと勘違いしたのか。<br /><br />
　奇妙な老人であった。全身をまったくぼろぼろの、ぼろきれのような黒衣で覆い隠し、顔と左手だけをそこから出している。左手は枯れ枝のように細く乾いており、そのためか不自然なほど指が長く見える。<br /><br />
　だが彼をたじろがせたのはやはり顔で、肌が乾ききっているのは手と同じだが、その中で目だけが夜に飛ぶ鳥のように大きく見開かれ光っていた。<br /><br />
「気味が悪かろう」<br /><br />
　彼の気持ちを見透かしたように、老人は云った。<br /><br />
「&hellip;&hellip;いえ、決してそのようなことは」<br /><br />
「正直者だな、目が語っている」<br /><br />
　なんと答えていいかわからず彼は黙った。<br /><br />
　気味が悪いかと云えば、確かにそうだった。<br /><br />
　青い光のみがうっすらと差す室内で、老人は闇の中に立つ、というよりも、むしろ闇を背負っているように見えた。<br /><br />
　塔を上る間、彼は進めば進むほど闇が濃くなるような感覚に襲われた。この部屋にはわずかとはいえ光もあると云うのに、その感覚は少しも薄れていない。むしろこの部屋が今までのどこよりも闇が深く濃く、重く感じられる。<br /><br />
（まるであの老人から、闇が生み出されているようだ）<br /><br />
　自分の考えを馬鹿らしいと思いながらも、どうしても彼にはそう思えてならなかった。<br /><br />
　あの老人こそが闇の源、元凶なのだ、と。<br /><br />
　老人が、微かに左手を動かしたと見えた。<br /><br />
「うっ」<br /><br />
　急激に、抗いがたい力によって彼は腰を下ろさせられた。次の瞬間、彼は何かに腰を掛けている自分を発見した。<br /><br />
（つい先程まで、確かに何もなかったはずなのに&hellip;&hellip;）<br /><br />
　座り心地の非常に良い、ゆったりとした椅子だった。彼の腰は柔らかな感触に包まれ深く沈み、腕は自然で心地よい形に肘掛けにおかれていた。<br /><br />
　座っているのが自然なことであると思わせるような椅子だった。不自然な点があるとすれば、いかに目を凝らしてもその椅子が目には見えない、ということだけ。<br /><br />
「座るがいい。&hellip;&hellip;あまり気にするな、どうあがいても通常の視力で見えはしない」<br /><br />
　老人も、同じように見えない椅子へと座った。<br /><br />
　再び微かに左手の指先を動かす。<br /><br />
　するともともとあまり強くなかった青い光は更に薄くなり、あるかなきかのごとくとなった。<br /><br />
　彼の目には室内の様子も分からなくなったがしかし、それでも老人の姿は一段深い闇で輪郭を描いたようにはっきりと見えた。<br /><br />
「さて&hellip;&hellip;」<br /><br />
　彼は老人と向かい合うような形で座らされていた。<br /><br />
　距離は結構離れている。だが、光が弱くなってから彼には老人がすぐ近くにいるようにも遙か遠くにいるようにも感じられた。<br /><br />
　老人は暗闇と同じ色をした黒い瞳で彼を見据え、ゆっくりと口を開いた。<br /><br />
「おまえは何者だ。どうして、いかようにここへとやってきた」<br /><br />
　どうして。<br /><br />
　それはむしろ彼の訊きたいことだ。<br /><br />
　なぜ、緑豊かなはずである神の庭は荒れ果て、存在するはずのない塔が神の庭にあり、なぜその塔の中にこの老人はいるのか。ここでいったい何をしているのか。<br /><br />
　疑問を飲み込み、彼は慎重に云った。<br /><br />
「聖王近衛隊所属、クライ・ローデンスです」<br /><br />
　礼を失さぬよう、だが先程よりはずいぶんと簡潔に云う。<br /><br />
「なぜここへ来た」<br /><br />
「警備の巡回中、見慣れぬ建物があったからです」<br /><br />
「&hellip;&hellip;どうやってここに来た」<br /><br />
「どうやって、と申しますと」<br /><br />
「いかなる手段を用いてこの塔に入り込んだのか」<br /><br />
「どうやって、と云われましても&hellip;&hellip;。神の庭より扉を開け、入ったのですが」<br /><br />
「&hellip;&hellip;ではお前にはこの塔が見えたのだな」<br /><br />
（当たり前だろう。これほど堂々建っていれば、いやでも見える）<br /><br />
「はい」<br /><br />
　内心を押し隠し、彼がそれだけ云うと、今まで淡々と話していた老人は少しの間黙りこくった。<br /><br />
「私からも少しよろしいですか」<br /><br />
「待て&hellip;&hellip;」<br /><br />
　闇の向こうで、老人がわずかに身じろぎするのが見える。動揺しているように見えるのは、彼の気のせいであろうか。<br /><br />
「&hellip;&hellip;そうか」<br /><br />
「よろしいでしょうか」<br /><br />
　老人は無言だしうなずきもしないが、否定もしない。<br /><br />
（何から、訊くべきなのか）<br /><br />
　彼が迷っていると、再び枯れ草の笑い声が聞こえた。<br /><br />
「おもしろいものだな。偶然か、あるいは&hellip;&hellip;。よかろう、お前、クライと云ったか」<br /><br />
「はい」<br /><br />
「ではクライ、少し昔話をしてやろう」<br /><br />
　言葉と同時に、周囲は完全な闇に包まれ、どうしたことかあれほど存在感を示していた老人の気配も突如として跡形もなく消えた。<br /><br />
　驚いた彼はとっさに立ち上がろうとした。<br /><br />
　が、強力な見えない手に押さえつけられでもしたかのように、身動きが取れない。<br /><br />
「あわてるな。私ならここにいる。ほかでは決して聞けぬおもしろい話をしてやろうというのだ。じっくりと楽しんでいけば良い」<br /><br />
　再び、笑い声がした。<br /><br />
　彼は観念した。<br /><br />
（この老人が何者かはわからぬし、特殊警備隊の任を考えれば、こうも得体の知れぬ相手の云うがままになるわけにはいかぬのだが&hellip;&hellip;）<br /><br />
「安心しろ。この話が、お前の知りたいことのいくらかの答えとはなるだろう」<br /><br />
「わかりました」<br /><br />
　なかばやけ気味に彼は云った。もとより、一月前より自暴自棄には慣れている。<br /><br />
　彼の気持ちを知ってか知らずか、老人はかすれた声で朗々と語り出した。<br /><br />
「現在の平原諸国のほとんどすべてが、魔道帝国ロズの支配を打ち破り新たに建てられたものだということは、知っているであろう」<br /><br />
　彼はうなづいた。平原に住む者ならば三つの子供でも知っているような事実だ。<br /><br />
「その中にあってただイルナーのみが旧暦より続く由緒ある国である&hellip;&hellip;だからこそイルナーは聖なる土地であるのだ、と。誰もが知っていることだ。だが、なぜただイルナーのみが暗黒帝国ロズの魔手を逃れ存続することができたのか、わかるか」<br /><br />
「大神ローネスの御加護かと」<br /><br />
（馬鹿らしい、信じてもいないことを）<br /><br />
「愚かな。神が何をしてくれるというのだ」<br /><br />
　彼が心の中のみにとどめた言葉を、老人は恐れる様子もなく口にした。<br /><br />
「だがそれが公式の見解となっているな。愚かしい、どうすれば、そこまで愚かであれるのだろうな。神が何をしてくれる。神はいるかも知れない、だが神は選り好みして人間を救ったりはしないだろう。人間、というよりは種を、だな。神が真実創造の主であるのならば、人も畜生もわけへだてのないものであろう。&hellip;&hellip;真実はな、イルナーとは暗黒魔道帝国ロズそのものであるからだよ。いや、ロズの正体が神聖イルナー王国である、というべきかな」<br /><br />
「&hellip;&hellip;」<br /><br />
　老人のあまりに意外な、そして冒涜的な発言に、一月前より愛国心の薄らいでいる彼とても言葉を失った。<br /><br />
「もとより、あの時代に最初の戦乱を起こしたのはイルナーだった。聖戦などではない、純然たる軍事力をもっての侵略戦争だよ。初めは隣国との小競り合いに過ぎなかったが、イルナーは最も魔道の研究が進んでいる国だったのでな、圧倒的な勝利をおさめた。勝利に味をしめた時の王は、更なる侵略を望み魔道の軍事利用の研究を進めるため一人の天才魔道士を召し抱えた。魔道士は王の期待に応え、さまざまな軍事的魔道を編み出した。その最たるものがマモノ――そう、今もゾルドの森で永遠の命を持て余している、あれだよ」<br /><br />
「&hellip;&hellip;」<br /><br />
「あまり驚かぬな、ではこれはどうだ」<br /><br />
　青い光が彼の眼前に広がったと思うと、そこにマモノが浮かび上がった。<br /><br />
「うっ&hellip;&hellip;」<br /><br />
　彼はあわてて立ち上がろうとしたが、からだが動かない。<br /><br />
「あわてるな――虚像だよ、ゾルドの森の光景を映し出したに過ぎない。実害は何もない。どうだ、これがマモノだ。無論、知ってはおろうな」<br /><br />
「&hellip;&hellip;ああ」<br /><br />
「見るのは初めてか。ゾルドの森には強力な結界が張られ、何者も入ることも出ることもできないのだから、当然か」<br /><br />
　彼はろくに返事をすることもできず、あえぐように呼吸をするだけだった。<br /><br />
　彼の目の前には、いくつもの奇妙な生命の姿が映し出されていた。<br /><br />
　全身に無数の口と牙を持つもの。<br /><br />
　腹部に巨大な一つ目を持つもの。<br /><br />
　腕が樹木のようにいくつにも枝分かれし、その先に小さな手が鈴生りにいくつも生えているもの&hellip;&hellip;。<br /><br />
　いずれも、見るもおぞましい異形の怪物の数々であった。<br /><br />
（気持ち悪い&hellip;&hellip;なんだこれは、この不快感は&hellip;&hellip;）<br /><br />
「わかるか&hellip;&hellip;、わかるな、これがマモノだよ。この人間もどきがね」<br /><br />
「人間&hellip;&hellip;もどき」<br /><br />
　そう、おぞましいのは、その異形の怪物たちがすべて、人間を思わせる形をしていたことだ。<br /><br />
　そう思い至ると、目を逸らしたくてたまらなくなったが、体は動かず目をつぶることもできない。<br /><br />
「見るのだ。見るのだよ」<br /><br />
　老人の声にサディスティックな響きが加わる。<br /><br />
「これがマモノだ。これが旧イルナーの生み出した生体魔道兵器だ」<br /><br />
　一体のマモノが、そのからだを頭部と思われるところから縦に真っ二つに裂いた。<br /><br />
　赤黒いグロテスクな内部が現れると、そこには巨大な牙がある。<br /><br />
（吠えている&hellip;&hellip;）<br /><br />
　虚像から音は聞こえなかったが、空気が震えたような気がして彼は身震いした。<br /><br />
　それは冒涜だった。<br /><br />
　生命を作り出した大いなる神への、この世に生きとし生ける生命全てに対する、冒涜。<br /><br />
　マモノとはそういうものであると、彼は理解した。いや理解させられた。どこまでもおぞましいマモノの姿を一目たりとも見たならば、誰でも理解すせざるを得ないであろう。<br /><br />
　こみ上げてくるのはただひたすらに、嫌悪。<br /><br />
　こんなものが存在してはいけないのだと、理屈ではなく本能に刻み込まれる。<br /><br />
　それがマモノであった。<br /><br />
「この禍々しい生命を用い、旧イルナーは平原に覇を唱えた。いかなる強大な軍隊もマモノにはかなわなかった。瞬く間にイルナーは平原の半分までもを平らげた。誰もがイルナーの凶行に怒りに震え、イルナーの滅びを願った。そして――」<br /><br />
　音を立てずマモノの姿が消え、再び周囲は闇に包まれた。<br /><br />
「彼らの願いは叶った。イルナーが内乱により滅びたのだ。ここから先は多少私の推察が入るがね、やはり無理があったのだ。最初の戦争から旧イルナーの滅亡までは一年とないという。国土も充実しなければ人心をつかむこともならない短期間での連戦では、マモノに頼らざるを得なくなる。おそらく滅亡直前のイルナー軍はほとんどマモノであったろうな。&hellip;&hellip;私はね、思うのだよ。人を殺すのは、やはり自然の摂理のうちにあるものでなくてはならない。摂理のうちにない死は、歪みを生む」<br /><br />
「ゆ&hellip;&hellip;がみ&hellip;&hellip;」<br /><br />
「そう、歪みだ。存在してはならぬ、摂理の歪曲だよ。ひとたび生まれた歪みはさらなる歪みを生むしかなくなるのだ。旧イルナーは歪みを生んだ。魔道という名の歪みを。その歪みがついに旧イルナーを包み込むほどに大きくなった、ということなのだろう。&hellip;&hellip;内乱を起こしたのはマモノを造り出した魔道士だった。仕組まれていたのだよ、最初から。マモノはすべてその魔道士の命に従うように造られていたのだ」<br /><br />
「では、まさかその魔道士が&hellip;&hellip;」<br /><br />
「魔道士の名はロズ・クリーウァイ――暗黒魔道帝国ロズの誕生だ」<br /><br />
「&hellip;&hellip;」<br /><br />
「あとは、まあつまらぬ話だ。お前の知っているであろうこととたいして変わらぬ。十数年の後、平原のほとんどは草木の生えぬ、生き物の影のない渇いた死の大地と化した。人々は各地に潜み、反逆の時を待った。そして勇者フェイズが現れ、絶大な統率力を持って大イルナー共和連合を結成、ロズとの全面戦争を起こしついにこれを打ち破る。フェイズは旧イルナー王家の血族であることから、復興したイルナーの王座に就き、国名を神聖イルナー王国と改める。もっとも、フェイズは王家のものであったとはいえ、傍流も傍流、太平の世なら王族などとはとても認められぬ程度のものであったがな。ともあれこうして現在の神聖イルナー王国が生まれたわけだ」<br /><br />
　それがこの話の締め括りであると知り、彼は大きく息を吐くと、いつのまにか自由になっていた身を見えない椅子に深くもたらせた。<br /><br />
「魔道帝国の礎が、我がイルナー王国であった、か。なかなか興味深い話でした」<br /><br />
「旧イルナーがマモノにそうまで頼らなければ、マモノなどを造り出さなければ、マモノを生み出した魔道士を召し抱えなければ、いや、そもそも魔道などという歪みを生み出さなければ、暗黒魔道帝国ロズなどというものは存在しなかったはずなのだ。ロズを打ち倒したところで、それで神聖なる国であるなどと、片腹痛いわ」<br /><br />
　重い声で、老人は云った。彼はうなずく。<br /><br />
「その通りかもしれません」<br /><br />
「ほう&hellip;&hellip;。お前は近衛兵であるのに王国を否定するような言葉を捨て置くのか」<br /><br />
「私は」<br /><br />
　彼は笑いながらキッパリと云い切った。<br /><br />
「本当はもうどうでもいいんですよ。イルナーもローネスも王国も。いくら信じていようとも答えてくれることなどない。先程あなたも云われましたね。神はいるかもしれないが、選り好みして人間を助けたりはしない、と。きっとそれは真実なのでしょう。しかし、いくら信じ尽くしても答えてくれないのなら、神も国も王も必要ない。&hellip;&hellip;本当はね、私はもうこの生だってどうでもいいのですよ。ただ仇を討てないのだけは心残りですが、きっともう無理だろうし&hellip;&hellip;」<br /><br />
　彼が話しおえると、老人はそれをどう受け取ったのか、深い沈黙がおちた。<br /><br />
「&hellip;&hellip;顔を見せてもらってよいか」<br /><br />
「どうぞ。しかしこの暗闇では何も見えやしませんが」<br /><br />
「案ずるな」<br /><br />
　突如激しい光の中に包まれる。<br /><br />
　眩しくて何も見えなくなる。だが彼は目も閉じずその光を受け入れた。<br /><br />
「これは」<br /><br />
「しばらく待て&hellip;&hellip;すぐに終わる」<br /><br />
　言葉通り光がおさまると、再び彼の前の空間に虚像が映し出された。今度はマモノではなく、彼の見知ったものだった。<br /><br />
（これは&hellip;&hellip;俺か）<br /><br />
　彼の顔であった。しかし、一月前の、本来の彼の顔とのあまりの違いに、彼自身でも一時そうと分からなかった。<br /><br />
（ひどいものだな、これは）<br /><br />
　最初老人を見たとき、青い光の中に立つ姿を幽鬼のようだと感じたが、人のことは云えない。<br /><br />
　目の前に大きく映し出されている彼の顔は、不眠と断食のためひどく頬が削げ落ち、髪はもとのブロンドがわからぬほどの白髪混じり。肌は死体のように青白くそのくせ目の周囲は異常に黒ずみ、落ち窪んだ眼窩の下で狂気の色を秘めた灰褐色の瞳が鋭く中空を睨んでいた。<br /><br />
「すみませんが、消してもらえますか。不快です」<br /><br />
「不快か、己の顔を見るのが」<br /><br />
「ええ、どうしようもなく」<br /><br />
「&hellip;&hellip;わかった。すまなかったな」<br /><br />
　言葉とともに、映像は消えた。<br /><br />
　しかし、彼の脳裏には自身の顔が焼き付き消えなかった。<br /><br />
「一つ、よろしいですか」<br /><br />
「よかろう」<br /><br />
「結局、あなたは何者なのですか。先程の話からは、それを示唆するものはなかったように思うのですが」<br /><br />
「ふん&hellip;&hellip;。魔道帝国ロズが滅びたとき、ロズの魔道文明はどうなったと思う」<br /><br />
「ことごとく破壊され、ごく一部がローネス教の管理下で封印されているのみと聞いていますが」<br /><br />
「ロズの礎となったのは旧イルナーであったと云ったろう。魔道文明は、もともとイルナーのものだったのだ。それを捨て切ることができるわけはなかろう。しかも極限までぼろぼろになった国を立て直さなければならないのだ。結果、ほかの国は知らぬが、イルナーでは公然の秘密として魔道は使用され続けた」<br /><br />
　歴史を覆すような言葉にも、もはや彼は少しも動じなかった。こうも立て続けでは、驚きも麻痺するというものだ。<br /><br />
「それでも一応は魔道の恐怖というものが身に染みていたのだろうな。時が経つにつれ、魔道は生活から取り除かれた。だがイルナー王家は魔道の完全なる消滅を惜しんだ。魔道を失ってはイルナーは他国に対し有利性を失うことになる。当時の王家は悩み&hellip;&hellip;そして魔道を秘匿することにした。隠したのさ」<br /><br />
「隠した&hellip;&hellip;」<br /><br />
「そう、一ヶ所に集め、それを誰も手の触れられぬ場所へ隠した。聖王城の深く、立ち入ることの許されぬ庭に、魔道のめくらましをかけて」<br /><br />
「&hellip;&hellip;それが」<br /><br />
「この塔だ。ここは最後の魔道文明の遺産であり結晶だ。一応はこの塔も封印されはした。ただし、教会ではなく王家の管理下でな。時代は平和であったし、魔道が危険なことは理解してはいたが、イルナーに危険が迫ったときのいわば切り札として、この塔はつくられた。そしてながらく使われていなかったのだがな、この争乱の時代に、聖王は塔の封印を解いた。そういうことだ。&hellip;&hellip;私は魔道士の最後の生き残りだよ。王家は塔の使用者として密かに魔道士の家系を一つだけ存続させた。その家は一子相伝としてこの塔にある魔道すべての使用法を子供に伝える。私がその家系の現当主、最後の生き残りと云うわけだ」<br /><br />
　急に、部屋が明るくなった。あの不思議な青い光ではなく、彼の見慣れた明かりだった。<br /><br />
　彼のランタンだった。いつのまに手放していたのか、彼の足下に油が切れていたはずのランタンが炎を灯して置いてあった。<br /><br />
「この塔は王家の秘匿だ。本来ならばどのような形であれここに近づいた部外者の口は封じなければならない」<br /><br />
「&hellip;&hellip;殺す、ということですか」<br /><br />
　もし今までの話が真実だとすれば、外に漏らすわけにはいかない。彼もとうにそれは理解していた。<br /><br />
「そうだ」<br /><br />
「私を殺す、と」<br /><br />
　予想していたことだ。彼には恐れはなかった。<br /><br />
（これで良いのかもしれないな。自分で死ぬ気にもなれぬ俺に、神が機会をくれたのかもしれない）<br /><br />
　そうとすら思った。だが老人は笑い声とともに答えた。<br /><br />
「本来ならば&hellip;&hellip;な。だが、お主はおそらく誰にも云わんであろう。仮に誰かに云ったとしても、今のお前ではついに精神に異常ををきたしたのだ、としかみな思わんだろう。&hellip;&hellip;帰るがいい、クライ・ローデンス」<br /><br />
　再び抗いがたい力が彼をとらえ、立ち上がらせランタンを手に取らせた。<br /><br />
「ただしこの塔のことは誰にも云ってはならない。云えばその場でお前は命を落とすことになる。お前の生命波長はすでに登録した。どこにいようが魔道がお前をとらえていると思え」<br /><br />
「わかりました」<br /><br />
　彼は言葉に従うことを決め、ぼんやりと青く光って場所を指し示す扉のほうへと歩いた。<br /><br />
「本日は大変興味深い話を聞かせていただき、大変感謝いたします。この御恩は忘れぬようにいたしましょう」<br /><br />
「忘れるのだ。今宵目にしたものの全て、耳にしたことの全てを」<br /><br />
「わかりました」<br /><br />
　扉は彼が近づくと、手も触れないうちに開いた。<br /><br />
「それでは失礼いたします」<br /><br />
「&hellip;&hellip;待て」<br /><br />
　彼は立ち止まり、声のしたほうへと振り向いた。しかしそこにあるのは闇ばかりで、老人の姿はやはりなく、声だけが続いた。<br /><br />
「お前、この部屋に入ってきたときに、私を誰かと見間違えていたようだったな」<br /><br />
「はい、恥ずかしながら、その通りです」<br /><br />
「あれは、誰と&hellip;&hellip;」<br /><br />
「聖王イル・サイナス陛下です」<br /><br />
　老人はいままでで一番深い沈黙の後、云った。<br /><br />
「何故、間違えた。私と陛下は似ても似つかぬように思うが」<br /><br />
「さあ&hellip;&hellip;。ただあの不可思議な青い薄光を背に立つあなたの姿を見た瞬間、聖王陛下であるように感じたのです」<br /><br />
「&hellip;&hellip;」<br /><br />
　闇の向こうで誰かがふっと微笑んだように、彼は感じたが、気のせいであったろうか。聞こえてくるのは、ただ老人の急き立てる声ばかりであった。<br /><br />
「&hellip;&hellip;とんだ不心得者よ。さあ、いくがよい。そして二度とこの塔に近寄るでない。もっとも、お前の目にこの塔が映ることはもうないであろうがな」<br /><br />
　彼は部屋を出、そして階段を下りた。<br /><br />
　来るとき永遠に続くかと思われるほど長かった階段は、精神的なものかあるいは魔道の技か、存外に早く終点を迎えた。<br /><br />
　重い鉄の扉を、彼は入ったときと同じようにゆっくりと開け放った。<br /><br />
（夜が明けている）<br /><br />
　高い壁の向こうに、昇り始めた日の光が見えた。<br /><br />
　長い闇の放浪から帰ってきた彼を迎えたのは、廃虚と化した街ではなく、いつもの聖王城と朝日であった。<br /><br />
　彼は神の庭の扉を開けた。そこにはまだ壁にもたれて眠りこけている少年兵の姿があった。<br /><br />
「いつまで寝ている」<br /><br />
「はいっ&hellip;&hellip;えっ、あっ&hellip;&hellip;」<br /><br />
　少年兵は目覚めきっていない顔であたりを見回し、数瞬後にようやっと自体を把握したか、彼に向かって深々と頭を下げた。<br /><br />
「も、申し訳ございません、明け方になりついうとうとと&hellip;&hellip;」<br /><br />
「いい。私が代わりに見張っておいた。異常はなし。扉の中もだ」<br /><br />
「す、すいません。ありがとうございます」<br /><br />
　少年兵は何度も頭を下げた後で、そっと彼の背の向こう、彼のいましがた出てきた扉の向こうを見て嘆息をついた。<br /><br />
「ああ、やはり素晴らしいですね。私などは扉を開けることも許されていないので、昨日一度見せていただいただけなのですが、ここはとても美しい庭園ですね。さすがに神の庭と云われるだけのことはあります」<br /><br />
　彼は振り向いた。<br /><br />
　そこには荒れ果てた地も奇妙な塔もなく、当たり前のような顔をして色とりどりの花を咲かせた庭園があるばかりであった。</p><br />
<p>&nbsp;</p><br />
<p>&nbsp;</p>]]></content:encoded>  
    <dc:subject>聖王大祭</dc:subject>  
    <dc:date>2008-03-04T11:25:32+09:00</dc:date>  
    <dc:creator>うなぎ</dc:creator>  
    <dc:publisher>NINJA BLOG</dc:publisher>  
    <dc:rights>うなぎ</dc:rights> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/59/"> 
    <link>http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/59/</link>  
    <title>第二夜</title>  
    <description>　 　 「クライ、一体どういうことだ」 　隊長室を出ると、声をかけてくる者がいた。 　日に焼けた赤褐色の髪と浅黒い肌を持ち、健康そのものといった逞しい肉体を彼と同じ近衛隊の正装に包んでいる若者。 　同僚のディズラッド・アーリーンだ。 　ディズラッドは歳は一つ彼より上だが、彼と同期であり、...</description>  
    <content:encoded><![CDATA[<p>　<br /><br />
　</p><br />
<p>「クライ、一体どういうことだ」<br /><br />
　隊長室を出ると、声をかけてくる者がいた。<br /><br />
　日に焼けた赤褐色の髪と浅黒い肌を持ち、健康そのものといった逞しい肉体を彼と同じ近衛隊の正装に包んでいる若者。<br /><br />
　同僚のディズラッド・アーリーンだ。<br /><br />
　ディズラッドは歳は一つ彼より上だが、彼と同期であり、近衛隊に入隊したのも同時でもあることからか、以前より彼によく話しかけなにくれとなく世話を焼きたがる。<br /><br />
　彼のほうも以前はそんなディズの好意をありがたいと思っていたし、つきあいも短くないので気心の知れた良い友人だと思っていた。<br /><br />
　ほんの一月前までは、だ。<br /><br />
「うるさいな、俺にわかるわけがないだろう。上に訊いてくれ」<br /><br />
　彼はディズラッドの手を邪険に降り払うと振り向きもせず足早に歩いた。<br /><br />
　一月前、あの事件より後は、以前心地良いと思っていたディズラッドの好意が鬱陶しく感じられる。<br /><br />
　彼が一人で部屋に閉じ込もっていたりすると、たいがいディズラッドが現れてあれやこれやと彼の気をひこうと話しかけてくるのだ。<br /><br />
　ディズラッドが、意気消沈し自暴自棄に陥っている彼をなんとか元気づけようとしているのはわかる。ディズラッド・アーリーンとはそういう人間だ、と。<br /><br />
　だが彼は思う。<br /><br />
（俺のことを考えているなら、そっとしておいてくれ。それが一番ありがたい）<br /><br />
　そう思っているから自然態度が邪険なものとなってしまう。<br /><br />
　それでもめげず話しかけてくるのが、ディズラッドの美点であるとは彼も知っているのだが、やはり鬱陶しいと思ってしまうものはしようがない。<br /><br />
「上って、隊長の上と云うと、命令系統から云えば宰相殿か聖王陛下だけだぞ」<br /><br />
「わかっているなら訊きに行けばいい」<br /><br />
「馬鹿を云うな。いくら近衛隊とはいえ、一兵卒にそんな真似ができるわけないだろう」<br /><br />
「ではあきらめろ」<br /><br />
「心当たりはないのか」<br /><br />
（鬱陶しくてかなわん）<br /><br />
　そう思わざるを得ない。<br /><br />
　冷たく聞こえるように淡白に云う<br /><br />
「ない」<br /><br />
「そうか&hellip;&hellip;。クライ、何だったら俺が代わろうか」<br /><br />
「別にいい」<br /><br />
「よくはないだろう。こんなところに一日中立ってろだなんて、近衛兵にもなっておかしいじゃないか」<br /><br />
「お前も近衛兵だろう」<br /><br />
「いや、俺はいいよ。まだ新入りだってのに、失敗ばっかしてるからな。本来ならこういった罰は俺に下されるべきなんだ」<br /><br />
「命じられたのは俺だ」<br /><br />
「それはそうだが、何だったら俺が今から隊長に&hellip;&hellip;」<br /><br />
　さえぎって彼は云う。<br /><br />
「ディズ、そろそろ時間だ。行かなくていいのか」<br /><br />
「ああ、くそ、もうそんな時間か」<br /><br />
　ディズは回廊の窓から夕焼け空を見上げると、いまいましげに一つ舌打ちをした。<br /><br />
「じゃあ俺は行くが、がんばれよクライ。後で様子を見に来るから、辛かったらそのとき交代しようぜ。なに、次の奴との交代時間までにこっそり戻ってくればわかりゃしないさ」」<br /><br />
（結構だ）<br /><br />
　喉まで出かかった言葉を飲み込み、彼は黙ってディズラッドの去っていくのを見るともなく見送った。<br /><br />
　ディズラッドの姿が回廊の向こうに消え、あたりに誰もいなくなったことを確認すると、彼は扉に寄りかかった。<br /><br />
　どうせ、誰も来やしないのだ、昨晩の彼のように、祭りの日に静寂を求める変わり者がそうそういるとは思えない。みな今頃は街に出て陽気に騒いでいることだろう。<br /><br />
　彼は神の庭の扉の前に立っていた。<br /><br />
（本日夕刻をもってクライ・ローデンスの特殊警備隊の任を解く。同時に王城北十四地区警備を任ずる）<br /><br />
　彼は塔を出た後、ほか大多数の兵士たちと同じように自室に戻りベッドの中に潜り込んだ。<br /><br />
　日が暮れればまた警備につかなければならない。休めるときには休むのも兵の仕事である。<br /><br />
　せっかくの祭りだからとなかにはそのまま広場に直行し、交代の時間まで眠らずに過ごす者もいたが、祭り気分を味わう気のしない彼は、少しでも喧噪が聞こえて来ぬようカーテンを締め切り布団を頭からかぶって目をつぶるばかりであった。<br /><br />
　それでも夜を開け二日目を迎えた聖王大祭のこの世のものとも思われぬ喧噪は彼に安眠を許しはしなかった。<br /><br />
　眠れぬのは喧噪のせいばかりでもない。あの日から彼は幾晩もまんじりともせぬ夜のなか、ようやくうとうとと眠り始めては悪夢にうなされ飛び起きると云う毎夜を送っている。<br /><br />
　慢性的な睡眠不足であったが、それでも彼は眠気をあまり感じなかったし、もはや安らかな眠りというものが自分に得られるなどと思ってもいなかったから、気になりはしなかった。<br /><br />
　むしろ眠れば必ず訪れる夢の中で、幾度も繰り返すあの時の情景を見ることこそが耐え難い苦痛であった。<br /><br />
　昨晩もまた、彼に眠気は訪れなかった。しかしそれはいつもの不眠症とも祭りの喧噪のためとも違っていた。<br /><br />
（あれはなんだったのだろうか）<br /><br />
　彼はあの塔と老人、そして老人の語った物語を目をつぶったまま思い浮かべる。<br /><br />
　それらの奇妙な情景はあまりに現実ばなれしているため、どんなに克明に思い出そうともまるで夢のようにおぼろげで頼りなかった。<br /><br />
（怪しげな魔道の塔、最後の魔道士、マモノ、信じられないな。夢だったのかもしれない。なんだか、最近夢と現実の区別がつかなくなってる気がするから）<br /><br />
　己の叫び声で目覚める夜半、彼は幾度となくむせぶような血の臭いを確かに感じた。それがよりひどくなったのかもしれない。<br /><br />
（それでも別にかまわんか。困ることでもない）<br /><br />
　自分一人ごときが真実狂気に陥ったところで。<br /><br />
　それよりも、あれはなかなかに楽しかった、と彼は思う。<br /><br />
　勇者の血を引く正統にして神聖なる国家と云ってはばからぬこの国が、まさか魔道帝国を生み出す礎となっていたとは。とんだお笑い種だ。しかもまだ魔道を隠匿し、使用しているらしい。これを公表すればローネス教の聖地であるからと友好を保ってきた近隣国家が一斉にイルナーに牙を剥くだろう。<br /><br />
（それでも神聖王国などと、聖王などといっていられるものか）<br /><br />
　そのさまを見てみたいと彼は思う。しかし、それを口にすることは禁じられていた。<br /><br />
　でも、だからといって約束を守る義務はない。<br /><br />
　嘘かまことか、口にすれば命を落とすことになるとあの魔道士は云っていたが、ただそれだけだ。<br /><br />
　死ぬのは別に恐くない。<br /><br />
（ああ、でも死んだらこの国が糾弾されるさまを見ることができないな。それではつまらない、意味がない。&hellip;&hellip;しかし、ということは俺は死のうと思えばいつでも死ねるわけだ。あのじいさんの魔道を信頼するならば）<br /><br />
　それだけはとても信頼できそうだと、彼はほくそ笑んだ。<br /><br />
　実際あの老人ほど魔道士と名乗るにふさわしい人間はいないように思われた。闇そのものを身にまとっているような人間だった。<br /><br />
（あの塔の話をするだけで、俺は死ねるわけだ）<br /><br />
　その考えは彼の心を浮き立たせた。&nbsp;<br /><br />
（死ねる、気楽に、大した決意もしないでいいし、かなり確実で、誰にも迷惑が掛からない。最高だな）<br /><br />
　気持ちが軽くなると、珍しく強烈な眠気が彼を訪れた。<br /><br />
　その眠りはひさかたぶりの、夢をも見ぬ深い眠りであった。<br /><br />
　　　　　　　　　　＊<br /><br />
　再び意識を取り戻すと、すでに日は傾き始めており、部屋の扉を誰かがけたたましく叩いていた。<br /><br />
　ディズラッドだった。<br /><br />
　ディズラッドは近衛隊長が彼を呼んでいると告げ、着替えも終わるか終わらぬかのうちに彼をひきずるようにして近衛隊隊長室へと連れていった。<br /><br />
　そして隊長から、彼は警備部所の転属を命じられたのだ。<br /><br />
　近衛隊が祭りの間に特定の場所の警備を任ぜられると云うのはとても珍しい、ほとんど類のないことだ。<br /><br />
　近衛隊はいわばエリート兵の集団であり、祭りの時はその能力を最大限に活かすため、大まかな配属地区と警備時間のほかはなにも制約されず、有事の時は自己の判断でその場を取り仕切る権限を持たされた特殊警備隊の任に着くのが常である。<br /><br />
　昨日までは彼もその任に着いていたし、ディズラッドや他の近衛隊員は今も特殊警備隊として聖都中を巡回しているはずだ。<br /><br />
　なのに彼だけが王城北十四地区、すなわち神の庭に通じるただ一つの門の警備を命じられた。<br /><br />
「俺にもわからん。これは上からの命令だからな。それに従うまでだ」<br /><br />
　隊長はそう云っていた。<br /><br />
　近衛隊は軍の中でも特殊な立場にあり、隊長は将軍などの命にも従う必要がない。近衛隊長は聖王を守る兵であり、命令ができるのは聖王その人か有事の際に王の名代をつとめる宰相だけである。<br /><br />
　そうなると、彼ら国政の頂点に立つ人間がなぜ一近衛兵の警備場所を変えようなどと思うのか。<br /><br />
　普通の人間ならばディズラッドのように理解に苦しむだろう。<br /><br />
　ディズラッドにはそっけなく「ない」と答えたが、しかし彼には心当たりがあった。<br /><br />
（やはりあの魔道士か）<br /><br />
　昨晩あの老人に出会ったこと、それ以外は考えられない。<br /><br />
　あの老魔道士が王か宰相かに何か進言したのだろう。<br /><br />
　そう予想はしても、彼に神の庭を警備させることに何の意味があるのかは分からないので、真意は伺い知れないのであるが。<br /><br />
「静かだな」<br /><br />
　彼のつぶやきは、誰も他に人の見当たらない回廊に消えていった。<br /><br />
　ほんの少し回廊の先へ行き、道を曲がれば多くの部屋の扉があり、部屋の内外には大勢の兵士が警備にあたっているというのに、神の庭の前はあくまでも静かだった。<br /><br />
　しばらくの間、彼はただ呆然とそこにたたずんだ。<br /><br />
　窓の外が次第に青く深くなり、やがて天に昨日と同じ満天の星空が輝き出すのが見えると、与えられた役割通り、周囲にある四つの篝火に順に火をつける。<br /><br />
　周囲が明るくなると、回廊の向こうから誰かがこちらに近づいてきているのが見えた。<br /><br />
（ディズか）<br /><br />
　うんざりした心持ちがしたが、近づくにつれよく見ると、その者は鋼と白銀で造られた近衛隊のではなく、真新しい鉄と革で造られた下級兵士の兵装をしているのが知れた。<br /><br />
　両手には盆を持っている。食事の時間だ。<br /><br />
「お役目、ご苦労様です」<br /><br />
　食事を持ってきたのはまだ年若い少年だった。<br /><br />
　少年兵は彼が近衛隊だと知っているのか、うやうやしい態度で彼に盆を差し出した。<br /><br />
　彼は無言でそれを受け取り、盆の上の瓶を引っ掴むと中身も確かめずに一息に飲み干して、むせた。<br /><br />
「&hellip;&hellip;これは、酒か」<br /><br />
「は、はい」<br /><br />
「&hellip;&hellip;どういうことだ」<br /><br />
　呼吸を整えながら、彼は少年兵を問いつめる。勤務中の兵に酒が振舞われるなど、いくら聖王祭でも聞いたことがない。<br /><br />
「申し訳ございませんでした」<br /><br />
　途端に少年は床に平伏した。<br /><br />
「私の不注意のために、あなた様にご迷惑をおかけいたしまして、本来ならば会わせる顔もございませんが、せめて一言お詫びをと思い、恥をしのんで参りました」<br /><br />
　少年は床に伏したまま恐れるように体を震わせている。<br /><br />
　彼はその少年兵が昨晩までここを警備していた、あの居眠りしていた少年兵であるらしいということにようやく思い至った。彼が特殊警備隊の任を解かれたことをどこからか聞きつけ、どういうわけか己が原因であると思ったのだろう。<br /><br />
「&hellip;&hellip;それで、酒で酔わせて懐柔しようというわけか」<br /><br />
　意地悪くそういうと、少年は泣きそうな顔を上げた。<br /><br />
「決してそのような&hellip;&hellip;。許していただこうなどと思っていません。ただ少しでもあなた様のお役に立てることはないかと思い&hellip;&hellip;」<br /><br />
「いいよ。許す」<br /><br />
　彼は簡潔に云った。<br /><br />
　少年兵は平伏したまま驚いた表情で彼を見た。<br /><br />
　まだ軍に入ったばかりなのであろう、非常に幼いといってすら良い、兵装も下げた剣も重そうな少年だった。<br /><br />
「行ってくれ。今後一切俺のことを気に病む必要はない。これは俺のことだ。お前には関係ない」<br /><br />
　彼が強い口調でそういうと少年はあわてて立ち上がり何度も「すいませんでした」と頭を下げながら去っていった。<br /><br />
（あんな子供が軍にね。神聖イルナー王国も落ちたもんだな）<br /><br />
　そう思っている彼もまた、あれほどに幼い時分に軍隊入りしたのだし、今とてまだ若者と云える歳なのだ。<br /><br />
　その場に腰を下ろし、瓶に詰まった酒をぐいと一口飲む。彼は酒はあまり好まず、ほとんど口にしないのだが、いまは不思議と溶け込むように心地良く酒が胃に落ちる。<br /><br />
（所詮、平和平和とうたっていても、あんな子供でも軍に入れなきゃならないほど戦乱は近づいているということか。そういえば、あの魔道士は）<br /><br />
　また一口飲む。<br /><br />
（戦乱の時代のため聖王が塔の封印を解いた、と云っていたな。ということは、あの塔は今も国の平和のために機能しているわけだ。何の役に立っているのかね、こんな戦争一つ起こらない国に）<br /><br />
　ほどなく瓶は空になった。<br /><br />
（いずれにしても、俺は二度とあの塔を見ることがない、とあのじいさんは云っていた。確かめようはない）<br /><br />
　立ち上がると、足が少しふらつくことに気がついた。飲み慣れぬ酒は少量でも予想以上に彼を酔わせていた。<br /><br />
（参ったな、少し酔いを冷まさなければ。そうだ）<br /><br />
　彼は名案を思いつき、神の庭へと通ずる扉に手を掛けた。<br /><br />
　扉を開ければ風が通るだろう。開けてはならないと云われてはいたが、誰が見ているわけでもない。かまうものか。それに今朝はよく見なかったが、神の庭をじっくりと見てもみたい。あれは噂通り見事なものだった。<br /><br />
　扉を開けた彼は、目の前に広がる光景にしばし呆然とした。<br /><br />
（やはり、俺は酔っているのだな）<br /><br />
　月光に照らされながら、塔はそこにあった。<br /><br />
　<br /><br />
　　　　　　　　　　＊　<br /><br />
　<br /><br />
「&hellip;&hellip;何故、再びここに来た」<br /><br />
「ここに塔があったから、かな」<br /><br />
　彼は愉快な気持ちで半ば笑いつつ告げた。<br /><br />
「自然の摂理さ、そこに塔があれば上りたくもなる」<br /><br />
「再びここに来れば命はないと云った筈だ」<br /><br />
「結構結構。さ、やってくれ」<br /><br />
　彼は床に寝転がった。<br /><br />
　ひんやりとした冷たい感触が鎧越しにも伝わってくる。しかしこれは石の冷たさではないと彼は思った。もっと無機的な、根元的な冷たさだ、と。<br /><br />
　部屋の中は相変わらず暗闇とその中に微かな青光が灯るのみで、彼のほうからはおぼろげに老魔道士の姿が見えるのみである。<br /><br />
「どうした。早くやってくれ。ちょうどいい。もう飽き飽きしてたんだ。早くしないと帰って皆にいいふらすぞ。この国の醜聞をさ」<br /><br />
「&hellip;&hellip;なにに飽いたと云うのだ」<br /><br />
　視界の端でちらちらと怪しげな装置がせわしなく動いているのが見える。<br /><br />
　低い奇妙なうなり声のようなものが聞こえるのにも初めて気づいたが、それが何であるのか考えるのも面倒であり、目を閉じてそれらのすべてを消した。<br /><br />
「一言で云っちまえば、生きてることに、かな。面倒なことが多すぎる。人と会ったり話したり、考えたり、飯を食うこととか寝ることとか、全部面倒だ、全部。救いがない。意味もない。さ、やってくれやってくれ。&hellip;&hellip;どうした、早くしてくれ。あんたの魔道とやらにはその程度の力もないのか」<br /><br />
　老魔道士は答えず、強烈な明かりが閉じた目の上から彼を射した。<br /><br />
　驚いて彼はとっさに目を開けたが、あまりの眩しさに再び目を閉じた。その動作が見えているのか、魔道士が彼に話しかける。<br /><br />
「あわてるな。ゆっくりと少しづつ慣らしながら開けるがよい。朝目覚めるときよりももう少しゆっくりとだ。この光は日の光よりはいささか人の眼に優しくない」<br /><br />
　言葉に従いゆっくりと目を開けると、あたりは白く輝いており、彼は荒んだ心も忘れ、ただ周囲を見回した。<br /><br />
　青光を放つ巨大な板が壁に沿って幾つも連なり、壁は神の庭そのものよりも大きく広がりゆうに千人をも収容できるようであった。<br /><br />
　天井もそれに比例して高く、しかし部屋の壁全体が白く塗漆されたうえにそれを気づかせた明りそのものも強く白く、どこまでが天井とも彼には知れない。室内は直線のみで構成されている。<br /><br />
　彼は気づいた。<br /><br />
（昨日と同じように階段を上がってきたのに、昨日とは部屋が違う。昨晩訪れたのは、ここと同じほど巨大ではあったが、円形であったはずだ）<br /><br />
　室内は全体的に何もなくがらんとしていて、先程まであちらこちらで蠢いていたように感じた装置の数々はどこへ行ったのか、あるのは妙にまったく丸みのない白く四角い腰までもある突起のみである。<br /><br />
　老人が腰掛けていなければその突起が椅子であるなどとは思わなかったろう。ではそのそばにある少し大きめのやはり白く四角い突起は卓であるのか。<br /><br />
（まるでこれは異文化だ。これが魔道の文明なのか。これは、なんというか、まるで平原的でない）<br /><br />
　イルナー平原内の国家は、神聖イルナー王国にせよ隣国のリンクラウドにせよ平原を挟んで向こうの軍事大国セイランにせよ沿岸国家シェムス連合にせよ、またその他の幾多の小国にしても、その文明は基本的には同質のものである。<br /><br />
　細かな違いは多くあるが、ローネス教を崇拝し、魔道を廃し、小麦を練ったパンを主食とし、石積みの家屋に住み、庶民は麻の、支配階級は絹で織られた服を好むなど、一般的な生活の根幹と言うものは変わらない。<br /><br />
　そして平原外の国家というものは、平原に住む者にとっては存在しないも同然である。<br /><br />
　高く険しい山脈と、ある境を越えると急激に流れを増す潮流のため、平原のものは平原に閉じ込められている。同様の理由により、外からのたずね人というものもない。まったくいないわけでもないが、訪れたものはそのまま平原に住まうか、故国へ帰ろうとしその後生死も定かでなく二度と平原に姿を現さないか、だ。文化の交流と呼べるものなどとうていない。<br /><br />
　いま彼のいるこの部屋の空気は、平原のそれではない。<br /><br />
　明らかな異文明の、異文化の香りがする。あまりにも彼には馴染みがなく、あまりにも異質すぎる。<br /><br />
　昨晩の、闇に包まれた部屋は奇妙であり恐ろしくはあったが、彼の知っている類のものであった。幼き日に聞いた説話を思い出すほどに。<br /><br />
　対していまのこの部屋はどうだ。<br /><br />
　部屋の中心で椅子とおぼしきものに座し、なにを思っているのか彼を凝視し続ける老人をも含め、この部屋は異質でありすぎる。<br /><br />
「座るがいい。せっかくだ、今日は面白いものを見せてやろう」<br /><br />
　老人が卓らしき白い突起の表面を撫でると、彼のすぐ後方で微かなかすれるような音がし、振り向くと老人が座しているのと同じような白い腰まである突起があった。<br /><br />
　それは昨晩のような、力による強制ではなかったが、彼は老人の言葉を聞くとそれに操られたようになり、立ち上がって突起に腰掛けた。<br /><br />
　座ってみると、その外見に反し、椅子は彼のためにあつらえたものであるかのように心地良く、瞬時、彼は場を忘れ思わず息をつき安らいだ。<br /><br />
　が、落ち着いて周囲を眺めると、そこはやはり白い壁と青光の板に囲まれて不自然なほどに広い空間であり、違和感の塊だ。<br /><br />
　老魔道士は昨晩と同様に、彼と向かい合うような場所に腰掛けている。<br /><br />
　そう近い場所ではないが、そんなに遠い場所でもない、そこまでは彼にわかるのだが、それ以上は良くわからない。距離感が良くわからないのだ。<br /><br />
　そう思う段になって、ようやく彼はこの室内の異常さの一端に気づいた。<br /><br />
（影がない）<br /><br />
　これだけの光の下にあって、室内には一切の影というものがない。<br /><br />
　そこかしこにある怪しげな装置も、白い突起も、老人も、彼自身のものすら、この場からは影というものが一切合財消滅していた。それゆえに距離感が取れなくなっていたのだ。<br /><br />
　部屋の中で、一点だけが切り取られたかのように黒かった。<br /><br />
　老人のいる場所だ。老魔道士の黒衣が白を裂き闇を落としている。<br /><br />
　彼は老人の顔を見た。<br /><br />
　近くもなく遠くもない場所にある老人の顔は影を失っているためか、白く平たく見えた。<br /><br />
　いや違う、事実老人の顔を白く平たかった。<br /><br />
　老人は仮面をつけているのだ。<br /><br />
　白く平たく、目の部分にだけちょうどの大きさの穴のあいた仮面を。<br /><br />
　仮面はいかなる材質でできているのか、アラバスターのように白く滑らかに見えるが、白銀のように輝いてもい、絹のように柔らかにも見えた。<br /><br />
「なぜ仮面なんか着けているんだ」<br /><br />
　彼はとうにたいしたものでもなかった酔いなど覚めていたし、この白い光景に心胆寒からしめされ、死を望む心などひととき忘れたが、敢えて挑むようにふてぶてしく云った。<br /><br />
「あんたのしわだらけの顔など、昨晩よく拝ませてもらっている。いまさら隠すほどのたいそうなものでもないだろうに」<br /><br />
　老人は仮面の向こうで何を思っているのか、彼のむやみに攻撃的な言葉にはなにひとつ動じる様子もなく、ただ黙って卓らしきものの表面を撫でた。<br /><br />
　すると壁の四方をぐるりと囲む謎の板の青光が激しくなり、室内は白から青へと色合いを変えた。<br /><br />
「私は魔道士だ。魔道の徒――その意味がわかるか。わかるまいな。わかるまいよ。魔道の者であるということは、魔道以外の全てを捨てるということだ。それだけの代償を払いはじめて魔道の力を得ることができる。&hellip;&hellip;全てだ。全て。わかるか。そこまでして得る魔道の力とは何なのか、それを今日は教えてやろう」<br /><br />
　仮面の下から聞こえてくる老人の声は少しもくぐもることはなく、逆に奇妙なほど若々しかった。<br /><br />
「魔道の力とは、すなわち世界だ。魔道とは、世界をその掌中に収める力なのだ。いま私はここにいる。この私とおまえのほかに誰もいないフェイズ・デルストの塔にな」<br /><br />
「フェイズ&hellip;&hellip;デルスト&hellip;&hellip;」<br /><br />
　デルストとは古語において、汚辱を意味する<br /><br />
「そう呼ばれているのだよこの塔は。もっともその名を知る者もほとんどいないがな。初代聖王イル・フェイズの生涯における唯一の汚点、フェイズの神聖性に傷をつけ、フェイズを汚辱するもの、ゆえにフェイズ・デルストと云う。&hellip;&hellip;話が逸れたな。そう、ともかくもいま私はここにいて、他の場にはいない。だが、私はここにいながらにして世界の全てを知り得ることができる」<br /><br />
　言葉の真意をつかみかね、彼は黙って魔道士の白い仮面を見つめた。<br /><br />
　黒衣の魔道士が話せば話すほど周囲の青光は強まっていき、ついにその光は頂点に達したか、彼の周囲で、光が爆ぜた。<br /><br />
「見よ。これが魔道の力だ」<br /><br />
　そして彼は見た。<br /><br />
　聖都エイルナードの祭りを祝う人々で賑わう街並を。<br /><br />
　リンクラウドの貧しさにあえぐ貧民街を。<br /><br />
　セイランの猛々しき騎馬部隊の修錬の姿を。<br /><br />
　一千一百を越すと云われるシェムス連合の大船団を。<br /><br />
　古都ラーガーウァナの貴族どもの爛れた宴を。<br /><br />
　フォトキアの狂える指導者ガルズァーク率いる狂乱の鬼兵隊を。<br /><br />
　廃都サイウムに隠れ集う亡国の民人を。<br /><br />
　平原のいたる国、その興亡すら問わず全ての都の姿を。<br /><br />
　また彼は見た。<br /><br />
　平原と外界とを隔てるイルナー連峰の暗く高き山々を。<br /><br />
　穏やかに波を寄せるシィリズの海原を。<br /><br />
　幾百年と枯れはて続ける〈白の草原〉を。<br /><br />
　その中央にただ一つだけそびえるはじまりの大樹を。<br /><br />
　ゾルドの森とそこに蠢くマモノの姿を。<br /><br />
　どこまでも広がる星空を。<br /><br />
　イルナー平原に存在する自然の、ありとあらゆる姿を。<br /><br />
　魔道士の言葉がなにひとつ例えでもなければ、誇張された表現でもないことを彼は知った。<br /><br />
　まさしくそこには世界の全てがあった。周囲に張り巡らされた青光を発していた硝子板に、平原のありとあらゆる情景が、ときに鳥のように空高くから、時に虫のように地の下から、また人の見ているような高さもあり、さまざまな形で彼の前に現れては消えた。<br /><br />
　巨大な灰色の円が彼の前にあると思うと、それが急激に彼の視界一杯に広がり、次の瞬間そこには壮大にして優雅、夜の中にもこうこうと灯りがともり白亜の肌を輝かせる建物があった。<br /><br />
　それがまさしく聖王城にほかならないと悟ったとき、彼は先程の巨大な円が聖都エイルナードを遙か上空よりのぞいた姿であることを理解した。<br /><br />
　円形都市とも呼ばれ、完全なる区画整理により建国の時よりその姿を変えぬ聖なる王都は、正確に真円であるのだ。<br /><br />
「これが魔道だ。わかるか、これが魔道だ。魔道なのだ」<br /><br />
　魔道士は興奮したような声を張り上げ、彼は目まぐるしく変わりゆく光景にただ魂を奪われたようにほうけているだけだ。<br /><br />
「平原のいかなるところへも魔道の目は届く。平原に住まう限り全てが私の掌中にある。おまえらが思考の限りを尽くした秘中の秘であろうとも、私の前では明らかすぎるほどに明らかだ。恥ずべきことも、身の破滅を招く秘密も陰謀も、あまねく全てが私の前にあかされる。見よ」<br /><br />
　魔道士は黒衣を振り上げた。<br /><br />
　次の瞬間、彼の前には陰惨な光景の数々が広がっていた。<br /><br />
　血に塗れ倒れる男の横で、剣を下げ笑いを浮かべる青年。<br /><br />
　たったいま老人の胸に包丁を突き立てている老婆。<br /><br />
　客人に供されるであろうグラスに怪しげな粉末を混入する男の歪んだ笑み。<br /><br />
　誰もいない墓所を荒らす者。<br /><br />
　激しく燃える家屋の前で嘲笑を浮かべる女の横顔。<br /><br />
　うつろな瞳で宙を見つめる中年女の足下には血を吐き出して悶え苦しむ若い男。<br /><br />
　貴族の若者は、薄汚れ全身を縛られた者の眼球をえぐり出す。<br /><br />
　闇の中で黙々と身を蠢かす男の下でなすがままにされている女はすでに事切れている。<br /><br />
　痩せこけた女が首を絞めている赤子は我が子であろうか。<br /><br />
　玉座の前に並べられた老若男女の生首を蹴り弄ぶ王の姿を見ている者はいない。<br /><br />
　あるいは憎しみによって、あるいは陰謀によって、あるいはただ快楽を得るためのみに、またあるときには愛ゆえにこそ行なわれる人の世の陰の営為が、彼の前に展開されていた。<br /><br />
　そこに人々の声がなかったのが、せめてもの救いだった。もし声もあり、彼らの呪いの、末期の苦しみと怨恨に彩られているだろう声の全てを耳にしていたならば、彼は気を狂わせずにはいられなかったろう。<br /><br />
「見たか。見たか。理解し得たか。これが魔道だ。これが魔道なのだ」<br /><br />
「やめて&hellip;&hellip;」<br /><br />
　彼の喉から懇願の響きを込めた言葉が漏れ始める。<br /><br />
「やめて&hellip;&hellip;くれ&hellip;&hellip;」<br /><br />
　しかし魔道士は嗜虐の意図を明確に秘めた声をなお張り上げた。<br /><br />
「見ろ。見るのだ。見るのだ。おまえはここが魔道の塔と知りてなお再びここを訪れた。望むならば見せてやろうというのだ。これが魔道だ。目を逸らすな。見なくてはならぬ。見なくてはならぬのが魔道だ。目を背けてはならぬのが魔道だ」<br /><br />
　血が血を洗い、策謀はつぎなる策謀に塗りかえられた。<br /><br />
　敵を、友を、恋人を、妻を、夫を、親を、子を、師を、己を、見も知らぬ他人をすら、人々はその手にかけた。<br /><br />
　苦しみと、憎しみと、快楽と、愛と、友情と、悲しみと、喜びと、悪逆と、正義が人々を破滅へと動かしているようだった。<br /><br />
「やめてくれ&hellip;&hellip;やめてくれ&hellip;&hellip;」<br /><br />
　そこにあるのは絶望だった。<br /><br />
　眼前に繰り広げられる光景は、生きているということそれ自体が破滅と死へと向かっているのだと云っていた。<br /><br />
　彼は何度も懇願した。だが魔道士は映像を消し去りはしなかった。<br /><br />
　彼がすがるような思いで見た魔道士の白い仮面にすら、子が実の親に犯される光景が映し出されていた。<br /><br />
　やがて彼は諦観とも魅惑ともつかぬ感覚に襲われ、眼を見開き息を呑み、おぞましき情景を見るに身を任せた。見ながら心が壊れていくのを感じた。<br /><br />
　そうしてどれほどの時が流れたろう。<br /><br />
　百年の孤独と千年の苦痛をも越えたような思いの果てに、突如として全ては消え去り、再びあの白く影のない部屋と黒衣の魔道士だけが彼の前にあった。<br /><br />
　彼は息を吐いた。<br /><br />
「これが魔道だ」<br /><br />
　魔道士の声は落ち着いていた。落ち着きすぎるほどに。<br /><br />
　呼吸が苦しく、何度も激しく肩を揺らしながら深く息を吸ったが、いくら吸っても足りないように思われた。彼のからだは長いこと呼吸することを忘れていたようで、先程のあの間、数えるほどにしか呼吸をしなかったのだ。<br /><br />
　目が眩み、白い部屋の中へ魔道士自身も埋没していくように見えた。<br /><br />
　が、一瞬後には逆に魔道士の背負う闇が部屋を黒く染めかえた。<br /><br />
　自分が気を失ったことに、倒れた衝撃で目覚めて気づく。<br /><br />
　気を失ったのは一瞬であるようにしか思えなかったにもかかわらず、離れた場所にいたはずの魔道士の白い仮面が目覚めた彼のすぐ目の前にあった。<br /><br />
　魔道士は云った。<br /><br />
「帰れ」<br /><br />
　冷めた、およそ感情と云うものを感じ取れぬ声だった。<br /><br />
「帰るがいい。理解しただろう。これが魔道だ。これが魔道なのだ。ここはお前の住まうべき世界ではない。忘れるのだ。そして二度とこの塔に近寄るな。例えその姿を見たとしてもだ」<br /><br />
　魔道士の言葉は正しい。それは、あまりにも彼にとって異質なおぞましい世界であった。<br /><br />
　本能がふれることを恐れる世界だ。<br /><br />
　しかし、立ち去る気配を見せた魔道士の黒衣の裾を、彼は必死の力で掴んでいた。<br /><br />
「&hellip;&hellip;待って&hellip;&hellip;待ってくれ」<br /><br />
「&hellip;&hellip;」<br /><br />
「頼みがある」<br /><br />
　魔道士は苦い笑いを漏らした。<br /><br />
「恐ろしくはないのか、お前。魔道が、いまの光景が」<br /><br />
「恐ろしい」<br /><br />
　恐ろしさに身体の震えが止まらなかった。話すこともままならぬほどに。衣服は汗でべとつき、頬を脂のような汗が幾つも滴っては落ちた。真実、彼は恐ろしかった。<br /><br />
「ならばなにも云わずに帰れ」<br /><br />
　それでも彼は黒衣を離さなかった。いま手を離しては、最後の機会を失うと思われた。<br /><br />
（復讐を）<br /><br />
「魔道の、あなたの力、よくわかった。あなたはいながらにして全てを知ることができる。それは偉大で恐ろしい力だ。目を背けたくなるほどに。それを承知であなたにお願いする。その力をわずかでいい、貸して欲しい」<br /><br />
　魔道士は椅子に座る彼を、漆黒の瞳で上からのぞき込むようにしたまま、何を思っているのかしばらく黙った後、しかしやはり冷たく云い放った。<br /><br />
「お前は魔道をわかっていない。まるでわかっていないのだ。いま見せたのは魔道の力のほんの一端に過ぎぬ。帰るがいい」<br /><br />
　彼は震える手で、見た目よりも相当に上等らしい滑らかな手触りのぼろぼろの魔道士の黒衣を引き寄せた。白い仮面がより近くに来る。<br /><br />
「&hellip;&hellip;離せ」<br /><br />
「あなたはいながらにして平原の全てを知ることができると云った。その言葉が真実であると云うことを私は知った。力を貸していただきたい」<br /><br />
　噛みつかんばかりの勢いで彼は云ったが、止まらぬ震えのためそれは悲壮な叫びのように響いた。<br /><br />
「必要なのだ。どうしても」<br /><br />
「わかっていない&hellip;&hellip;魔道の力を行使することは己の身を滅ぼすことになるのだ」<br /><br />
「かまわない、この身などどうなろうとも」<br /><br />
　悲壮な言葉は、よりいっそう強く響くと、白い壁の中に吸い込まれるように消えていった。<br /><br />
「&hellip;&hellip;かまわぬ、と」<br /><br />
　魔道士はゆっくりと云った。<br /><br />
「云ったのか&hellip;&hellip;。かまわぬと、この身が滅びようともかまわぬと、そう云ったのか」<br /><br />
「そうだ。もはやこの身など何の意味がある。復讐をすら成し遂げられぬならば」<br /><br />
「&hellip;&hellip;愚か者め&hellip;&hellip;愚か者め&hellip;&hellip;」<br /><br />
　幾度かそう繰り返した後、決然とした声で魔道士は告げた。<br /><br />
「よかろう、云ってみるがよい、お前は何を望む。その身をすら魔道に捧げ、お前は何を魔道に望む」<br /><br />
「復讐を。咎人に正当なる復讐の刃を」<br /><br />
　彼は魔道士の黒衣の裾から手を離した。途端に音もたてずに魔道士は離れ、先程のように奇妙な白い突起に腰掛けた。<br /><br />
　彼はいまだ震えていたが、それはいつしか恐れではなく蘇る怒りによるものとなっていた。<br /><br />
「いまよりおよそ一月ほど前、アルパーダの日、一人の女が殺された。名をフェミナ・ハイアッド」<br /><br />
　その名を唇にのぼせるのは、幾日ぶりのことであったろうか。<br /><br />
　心の中では幾度となく呼び続けたその名を、音声として聞くのはずいぶんと久しぶりだった。彼に気を使ってのことだろう、誰も彼の前でその名を出すことはなかったし、彼自身にとって、その名は思うだけで苦しすぎ、言葉にすることはできなかった。<br /><br />
　その愛しき名を、密やかに燃えたぎった怒りと憎しみとともに彼は口にした。<br /><br />
　復讐をなしえるかも知れぬという期待のもとに。<br /><br />
「彼女を殺した者を知りたい」<br /><br />
「もう少し詳しく知る必要がある。場所は。それとできるならば時刻」<br /><br />
　ひどく実際的に、まるで他愛のない事務作業について訊くように、魔道士は訊いた。<br /><br />
「その時の状況も、知っているならば詳しくだ」<br /><br />
「場所はイリークの大通り、第三区の交差路にほど近いところだ。時刻は午後の二点鐘が鳴る直前」<br /><br />
　幾度も夢に見た情景は、いましがた見てきたようにはっきりと思い出せる。<br /><br />
「俺は彼女とともにイリークの大通りを歩いていた。俺はほんの少しの間、たった５レイルだけ彼女を離れた。だが振り向いたとき、彼女は&hellip;&hellip;」<br /><br />
　喉に何かが詰まったように、彼はどうしようもなく息を詰まらせた。<br /><br />
　それを無理に吐き出すように、彼は言葉を吐いた。<br /><br />
「&hellip;&hellip;フェミナは喉と胸から血を噴き出しながら倒れるところだった。俺は倒れた彼女を抱き上げた。まだ生きていたが、俺の腕の中でほどなく死んだ。ほとんど即死だった」<br /><br />
　最大限にさりげなく告げてもなお、心は熱い火の棒でえぐられたように苦しかった。魔道士はあくまでも冷静に続ける。<br /><br />
「殺人者は見えなかったか」<br /><br />
「それらしき者が、一瞬だけ見えた。この国では見ないような意匠の、黒い鎧を着けていた。三人、いたようだった」<br /><br />
「その者達が犯人である、と」<br /><br />
「確証はない。だが確信はしている」<br /><br />
「ほかに特筆すべきことは」<br /><br />
「彼女の傷口は三つあった。心臓に一つ、ちょうど反対の胸に一つ、それと喉が切り裂かれていた。いずれも鋭利な刃物を使用したもので、手慣れた鮮やかな手口だと、医者は云っていた」<br /><br />
「その女が殺される心当たりは」<br /><br />
「あるものか、そんなもの」<br /><br />
　吐き捨てるように彼は云った。<br /><br />
「彼女を憎む者など、あるものか」<br /><br />
「その女とお前との関係は」<br /><br />
「愛していた。愛していたんだ、誰よりもなによりも強く深く、俺のもてる全てをもって、愛していた。言葉なんかでは言い表せないほどに強くだ」<br /><br />
「わかった」<br /><br />
（何がわかったと云うのだ。俺のフェミナを愛し求めて止まぬ心の、それが永遠に叶わぬがゆえの絶望の、どれほどがわかったと云うのだ）<br /><br />
　言葉を飲み込み、彼は黙ってうなづいた。瞳にはか昏い炎を宿したままに。<br /><br />
「犯人はまだ捕まっていないのだな」<br /><br />
「だからあなたに頼んでいる。魔道に頼っている。いまだ手がかり一つとしてない。なんでもいい。どんな些細な手がかりでも」<br /><br />
「成程。一月前か&hellip;&hellip;。よかろう、お前の望み、引き受けた」<br /><br />
　やはり事務的に、魔道士は返事をした。<br /><br />
「ありがたい。どんなことでもいいのだ、奴らの探す手がかりとなるならば」<br /><br />
「フェミナ・ハイアッドだな。数日&hellip;&hellip;、そう、長くて三日かかるやも知れぬ。だが三日の内に結論を出そう。明日の夜、再びここを訪れるがいい」<br /><br />
　彼は椅子から下り、深く叩頭した。<br /><br />
「ありがたい。なんと礼を云えばいいか&hellip;&hellip;」<br /><br />
「そのようなものはいらぬ。ただし、お前自身の先程の言葉、決して忘れるな」<br /><br />
　瞬間、魔道士の瞳がまるで血のように赤黒く光った気が、彼はした。<br /><br />
「俺の、言葉&hellip;&hellip;」<br /><br />
「この身が滅びようとかまわぬと云ったその言葉、忘れるな」<br /><br />
「そのことか。もちろんだ、もちろんだとも」<br /><br />
　彼は魔道士の真意がわからず、わからぬがゆえに恐れ気もなく答えた。<br /><br />
　それが長く狂おしき契約の、初めの言葉であるとも知らずに。<br /><br />
「復讐が成せるのならば、この身が幾度滅びようともかまうものか。百度地獄の劫火に焼かれようとも、後悔はしない」<br /><br />
「よかろう。お前の命、いまより我がものとする。代償として、望みは必ず果たしてやろう。必ずだ。帰るがいいクライ・ローデンス。明日の夜半にまた会おう」</p><br />
<p>　その時の魔道士の様子を、彼は覚えていない。<br /><br />
　どうやって塔から出たのかすら。<br /><br />
　復讐の炎で彼の視界は赤く染まったようになり、盲のように彼は何も見えぬまま、気がつくと神の庭を脱し、門の前に立っている自分を発見していた。<br /><br />
「誰だ」<br /><br />
　人の気配を感じ、彼は云った。<br /><br />
　しかしあたりには物音一つせず、とうにかがり火は消えて暗闇に包まれた遠くの様子はわからない。街に出ればうるさいほどに聞こえるだろう大祭の騒ぎもなく、ただ静寂と暗闇があるだけだった。<br /><br />
　風が吹いていた。<br /><br />
　神の庭は昨日の朝にも劣らぬほど、色とりどりの花々が鮮やかに咲き乱れ、薄闇の中にも美しかった。<br /><br />
　門を閉めると、風は止んだ。<br /><br />
　やがて空が白みはじめる。<br /><br />
　二日目の夜は終わり、聖都エイルナードは大祭三日目の朝を迎えようとしていた。</p><br />
<p>&nbsp;</p>]]></content:encoded>  
    <dc:subject>聖王大祭</dc:subject>  
    <dc:date>2008-03-04T11:25:03+09:00</dc:date>  
    <dc:creator>うなぎ</dc:creator>  
    <dc:publisher>NINJA BLOG</dc:publisher>  
    <dc:rights>うなぎ</dc:rights> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/58/"> 
    <link>http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/58/</link>  
    <title>第三夜</title>  
    <description>　彼は夢を見ていた。幾度となく見、いつも苦しみ叫びながら覚める、あの夢を。 （早く行こうよ、早く早く） （クライ、もう、急がなくてもアルパーダ様は逃げないわよ） （でも売り切れてしまうかもしれないじゃないか。そうしたら来年のアルパーダの日までどこにも売っていないんだ） 　ローネス歴では、...</description>  
    <content:encoded><![CDATA[<p><br /><br />
　彼は夢を見ていた。幾度となく見、いつも苦しみ叫びながら覚める、あの夢を。<br /><br />
（早く行こうよ、早く早く）<br /><br />
（クライ、もう、急がなくてもアルパーダ様は逃げないわよ）<br /><br />
（でも売り切れてしまうかもしれないじゃないか。そうしたら来年のアルパーダの日までどこにも売っていないんだ）<br /><br />
　ローネス歴では、そのほとんどの日は天使の名で呼称される。<br /><br />
　ローネスは四面八臂の神であり、手には六本の指が生えている。ローネスの指は天地を創造する聖なるものであるとされ、そのため一つの指を七の天使が守っているとされる。また顔一つにも七のこれは力の強い天使がつく。<br /><br />
　ローネス歴では指一つを守る天使の数、つまり七日を一週とする。<br /><br />
　腕一本、つまり指六本分の四十二日が一ヶ月。一ヶ月はそれぞれローネスの腕の名で呼ばれる。<br /><br />
　それが八ヶ月あり、顔を守る天使の月だけ四週の二十八日。<br /><br />
　それに加えて大神ローネス不在の日とされる一年最後の日のみローネスの子にして分身である英雄神リクリスの日とされる。<br /><br />
　それら全てを合わせた三百六十五日が一年だ。<br /><br />
　今日はローネス第三の腕、アネイサーの月、アルパーダの日。<br /><br />
　アルパーダはアネイサーを守る天使の長であり、両性具有の天使達の中では、最も女性的で優しげな外見を持つと云う。<br /><br />
（早く。ああ、そろそろ二点鐘がなってしまう）<br /><br />
　平原の国家、ことに信仰厚きことで知られるイルナー王国では、大神ローネスを守る天使の姿を描いた工芸品がもてはやされている。彫像や装飾品、ドレスなどの衣服にいたるまで、天使の姿を取り込んだものが長く親しまれているのだ。<br /><br />
　彼がいま向かっているのは、そうした商品を扱う店の一つであり、あまり大きくもなく有名というわけでもないが、有識者の間では腕の良いことで知られている女性用装飾品の店だ。<br /><br />
　店の特徴は、普段の商品のほかにその日の天使の姿を象ったものを用意していることだ。ただし数は少ないうえに、意匠を凝らしたものがほとんどであるため、多少値も張る。<br /><br />
　今日はアルパーダの日であるので、用意されているのもアルパーダにちなんだものだ。<br /><br />
（あのアルパーダのイヤリングは、あの店にしかないんだから）<br /><br />
　何もアルパーダを模した商品がほかの店にないわけではないが、アルパーダの女性性というものは、一般的には母性と解釈され、ふくよかな美しき母といった具合に描かれる。対して、その店のアルパーダは若く儚げな女性のように描かれているのだ。<br /><br />
　彼は先日友人からその店のアルパーダのイヤリングを見せてもらい、一目で気に入った。<br /><br />
　まるでフェミナのようだ、と。<br /><br />
　くしくもアルパーダの日は彼女の誕生の日でもある。<br /><br />
　彼はフェミナにそのイヤリングを贈るため、こうして彼女と二人で店を目指しイリークの大通りを歩いているところなのだ。<br /><br />
　そろそろ午後の二点鐘、店の開く時間だ。<br /><br />
　彼はフェミナをせかすが、しかし彼女のほうは困ったように微笑みながらいつも通りに悠然と歩を進めている。<br /><br />
（大丈夫よ、大丈夫。ほらクライ、そこ危ないわよ）<br /><br />
　彼は段差に気づかず転びそうになったが、危ういところでなんとかバランスを保った。<br /><br />
　始終彼女のほうを振り返り、ろくに前を見ていないから先程から何度もいろんなものにぶつかったり転びそうになったりしている。<br /><br />
　彼女は「大丈夫？」と不安げに問うが、彼が笑顔で応えると「良かった」とつぶやき笑顔を返す。<br /><br />
　天気の良い日であった。三の月アネイサーは気候も温暖な暮らしよい季節である。<br /><br />
　中天よりやや傾いた太陽は暖かい光を地上に惜しげなくもたらし、その陽光によって彼女のブロンドの髪が美しく輝いていた。<br /><br />
　彼はその彼女の姿を見るたびに眩しいような思いがして眼を細め、やはり天使だ、アルパーダのようだ、と顔をほころばせる。<br /><br />
　人通りの多いイリークの大通りであるから、道行く人の幾人かが、彼らのほうを見、笑みを浮かべている。彼はフェミナが誇らしくて、ますます笑みが止まらなかった。<br /><br />
　幸せだ、と彼は思った。<br /><br />
　彼女と出会ってからの一年余りは夢のようだった。孤児であった彼にとって初めて知る幸福であった。<br /><br />
　自分が不幸であったとは彼は思わない。自分を育ててくれた施設の人には感謝もしているし、彼らは十二分に彼ら子供達を愛し育ててくれていた。軍に入ってよりも厳しくはあったが部下思いの上官にも恵まれ、ディズラッドのような気の合う友人もできた。十分すぎるほどに自分は恵まれているし、不平をいっては罰があたると彼は思う。<br /><br />
　しかしそれでも彼にとって彼女は、フェミナ・ハイアッドは特別な存在なのだ。<br /><br />
　孤児であるゆえにか、どれほど親しく信頼している者の前ですら外すことのできなかった彼の無意識下の精神の鎧を、彼女はいともたやすく笑顔一つで外してみせた。<br /><br />
　愛していると思った。そう思うことが彼を幸せにした。<br /><br />
　愛している。誰よりも、もはや己と切り離して考えることのできぬほどに。<br /><br />
（あっ、あそこだよ）<br /><br />
　求めている店の姿を確認し、彼はますます彼女を急がす。彼女は微笑むだけでやはりゆっくりと歩いている。彼はできるだけ我慢をしたが、それでも軒先に彼の求めるアルパーダの姿を象った耳飾りを見つけると、いてもたってもいられなくなり思わず駆けた。<br /><br />
（あれだよあれ。ほら、フェミナ）<br /><br />
　彼女を喜ばせたかった。<br /><br />
　彼女はそこにいるだけであまりにも多くのものを彼に与えてくれた。<br /><br />
　愛と安らぎとを。<br /><br />
　なのに自分には何一つ彼女に与えられるものがないのが彼は嫌だった。<br /><br />
　だからせめて、彼女にふさわしい贈り物をしたかった。<br /><br />
　彼女を思わせるアルパーダの耳飾りこそは彼女にふさわしく思われ、それを手に喜ぶ彼女の顔を、耳飾りを着けた彼女の姿を見たかった。<br /><br />
　彼女の笑顔を少しでも多く長く見たかった。<br /><br />
　彼にとってはそれが全てだった。<br /><br />
　だから駆けた。<br /><br />
　愛しているから。<br /><br />
　彼女を愛しているから。<br /><br />
　誰よりも強く深く、彼女を愛しているから。その喜ぶ顔が見たいから。<br /><br />
（ほら、これだよこれ。ほらフェミナ、ほら&hellip;&hellip;）<br /><br />
　笑顔で振り向くと、少し離れたところで、彼女はいつも彼を見るときにするように、少し困ったような、それでもうれしそうな微笑みを浮かべていた。<br /><br />
　彼女のまわりで、真赤な大輪の花が一時に幾つも咲いては散った。<br /><br />
　彼女は赤い花園の中で微笑みを彼に向けたまま、翼をもがれた天使のように、ゆっくりとくずおれていった。<br /><br />
（え&hellip;&hellip;）<br /><br />
　彼は意味がわからず、笑顔を浮かべたままその光景を見ていた。<br /><br />
　どこかで誰かが叫んでいるのが聞こえた。<br /><br />
　彼女の名を呼んだ。<br /><br />
（フェミナ）<br /><br />
　応えはなく、彼は倒れた彼女に近づいたが、足取りはまるで夢に遊ぶようだった。<br /><br />
　ほんのわずかな距離をやっとの思いで彼女のもとにたどりつき抱きかかえると、真赤な花園はとどまることなく広がり続け、彼を飲み込んだ。<br /><br />
（フェミナ）<br /><br />
　再び彼女の名を呼んだ。やはり応えはない。<br /><br />
　彼女は瞳を閉じ少し困ったように微笑んでいるだけで、澄んだ青い瞳で彼を見返しては来なかった。<br /><br />
（フェミナ。フェミナ）<br /><br />
　幾度も幾度も、百度も彼女の名を呼んだ。<br /><br />
　千度も冷たくなっていく唇にくちづけた。<br /><br />
　彼女は何も応えてくれなかった。<br /><br />
　口癖のように繰り返す「大丈夫」という言葉はなかった。<br /><br />
　彼はわからなかった。<br /><br />
　何もわからなかった。<br /><br />
　何がどうなっているのか、何が起こっているのか、何もわからなかった。<br /><br />
　ただ呆然としたまま鳴り出した午後の二点鐘に顔を上げた。<br /><br />
　黒く鈍い金属の輝きが見えた。<br /><br />
　黒い鎧を身に着けた者が遠くからこちらの様子を伺っている。<br /><br />
　その瞬間、まったく何の根拠もなく彼は強烈な殺意に目覚めた。<br /><br />
（殺してやる。奴等を殺してやる）<br /><br />
　その時にいたっても、彼は彼女の死を受け入れていなかった。それでも、殺意はどこまでも強く沸き上がった。<br /><br />
　世界はいつしか暗転し、彼の前には黒鎧の三人の者だけがいた。彼は追いかけた。<br /><br />
（殺してやる殺してやる殺してやる）<br /><br />
　彼の心を殺意だけが支配した。<br /><br />
　黒鎧の者の一人の頭を掴むと、素手でその首をひねりちぎる。<br /><br />
　大量の黒い血が噴き出し、彼女の血で朱に染まっていた彼を黒く染め直した。<br /><br />
　もう一人の鎧を拳で粉々に打ち砕くと、その腹を裂き内臓をひきずり出した。<br /><br />
　最後の一人を捕まえ、眼球をくりぬき、腕をもぎ、心臓をえぐり出す。<br /><br />
　彼は笑った。<br /><br />
（殺してやる。殺してやるぞ）<br /><br />
　叫びながら彼は甲高い哄笑をあげた。<br /><br />
　彼のほかに何もない世界の中で、彼は憎しみと呪いの言葉を吐き続けた。<br /><br />
　いつまでもいつまでも、永遠に彼はそうしているのだった。<br /><br />
　<br /><br />
　　　　　　　　　　＊<br /><br />
　<br /><br />
　自分の狂気じみた笑い声で目覚めると、彼はうっすらと目尻に溜まった涙を拭い、寝台から立ち上がった。<br /><br />
（今日の夢はいつもと少し違ったな）<br /><br />
　いつもは黒い鎧の男達を呆然としたまま見失うところで目が覚めるのに、いまの夢にはその続きがあった。<br /><br />
　鐘の音が聞こえる。外の明るさから察するに午後の一点鐘であるらしい。<br /><br />
　着慣れた白い上衣を裸身にまとい、いつも通りボタンも止めぬだらしのない格好のまま寝台に座り直す。<br /><br />
　着任時刻の三点鐘まではまだずいぶんとあるが、目覚めてしまえば再び眠る気になどなれず、彼はあの日より日頃そう過ごしているように、虚ろな気持ちで中空を見つめたままぼんやりと時が過ぎていくのを待った。<br /><br />
　ふと思い立って立ち上がり、荒れ果て放題の部屋を横切って、部屋の隅に追いやられるようにしてある机の引き出しを開けて、緻密な彫刻のなされた宝石箱を取り出した。<br /><br />
　宝石箱は鍵がかかっていた。彼は自身で鍵を掛け、その鍵を捨てたのだと思い出した。<br /><br />
　宝石箱は彼に託されたフェミナの形見であった。箱の中には彼女の身に着けた指輪や耳飾りなどが入っている。それを見て彼女のことを考えるのが辛く、二度と開けまいと鍵を捨てたのだ。<br /><br />
　それでも宝石箱自体を捨てることのできなかったのは、やはり未練であったろうか。いずれにしろ、彼は一ヶ月ぶりに宝石箱を手に取った。<br /><br />
　壁にたてかけた白銀の鎧の懐を探り、短剣を取り出し刃を宝石箱の鍵穴にあてる。<br /><br />
　もともと手先が器用な方で、こういったことは得意であったのだが、断食といっても過言ではない栄養不良と、悪夢による睡眠不足と、それでも休まぬ軍務のための疲労が重なり、思った以上に腕に力は入らずまた指先は震え、なかなか上手く宝石箱をこじ開けることはできなかった。<br /><br />
　それでもいくらも経つとなんとか開けることができたのは、以前までのたゆまぬ訓練の賜物だろう。<br /><br />
　宝石箱の中からは、あまり数多くではないが、いずれも決して安からぬ装飾品の数々が出てきた。幾つかは彼がフェミナに贈った物である。彼はその中の一つを取り上げる。<br /><br />
　彼が贈ろうとしてついに叶わなかったアルパーダの耳飾りだ。<br /><br />
　耳飾りはいま冷静に見るにつけ、やはり精緻な造りの逸品であるのは間違いなかったが、もはや彼女を思わせはしなかった。ただの、良くできた耳飾りに過ぎない。<br /><br />
（思えば、俺は彼女に母を求めていたのかもしれない。あらかじめ失われていた母を）<br /><br />
　純銀の耳飾りはひんやりと冷たく、彼の熱を奪っていく。<br /><br />
（フェミナは優しかった。俺にとって真実の安らぎを得られる初めての場所だった。フェミナが微笑むだけで、俺は俺の全てを許してもらえたような気がした。&hellip;&hellip;だが、相手に幻想をつきつけ一方的に寄りかかるようなものを、果たして愛などと呼べるものか。例え愛だとしても、それは歪み淀んだ、爛れた愛だろう）<br /><br />
「だから、いずれかの形で破滅するしかなかったんだ」<br /><br />
　彼は、いつもそうするように、己の心をえぐるような言葉を自身に叩き付けた。そうすることによって痛んだ心だけが、自分がまだ生きているという証拠であるように思われた。<br /><br />
（だが、いくら歪み破滅を約束された愛だったとしても、それが俺の愛だったのだ。俺は仇を討たねばならない。葬られてしまった俺の愛の仇を。&hellip;&hellip;そして俺はついにその術を得たのだ）<br /><br />
　魔道。<br /><br />
　凝り固まった復讐心を持ちながらそれを果たす術を持たず一ヶ月ものあいだ意味もなくさまよい続けた彼の前に差し出された光明は、幾百年の昔にこの世から姿を消したはずの魔道であった。<br /><br />
　それはおぞましく恐ろしく、彼自身をも滅びへと誘う危うく怪しい禁忌である。<br /><br />
　だがどのような代償を支払おうと、彼はそれを欲した。復讐のために。<br /><br />
（夜はまだか）<br /><br />
　三日以内とあの魔道士は云った。だから今宵にも結果は出るかもしれない。<br /><br />
　彼は夜が待ち遠しくてたまらなかった。夜の訪れが、彼の復讐劇の幕開けであるのだ。<br /><br />
　だが太陽天に高きいま、彼を訪れたのは無論夜ではなく、良く知る者のけたたましい声だった。<br /><br />
「クライ、クライ、起きているか」<br /><br />
　まるで生命の躍動そのものといったような弾んだ声が聞こえたと思うと、彼の部屋の扉はノックもなしに派手な音をたてて開いた。<br /><br />
「クライ&hellip;&hellip;、おお、起きているか。珍しいな」<br /><br />
（起きていないと思ったなら、もう少し静かにして欲しいものだが）<br /><br />
　思いながらも何も云わず、耳飾りと宝石箱を素早く寝台の影に隠すと、彼は今朝方眠る前に脱ぎ捨てそのままに放っておいた衣服を身に付けだした。<br /><br />
「まったく、相変わらずえらい散らかりようだな」<br /><br />
　部屋のあちらこちらに散乱した衣服や書物、手付かずのままに黴の生えたパンの残骸やもとが何であったのかわからぬ色をしたグラスの中の液体などを、折り畳んだり一ヶ所に集めたりして整理しながら、ディズラッド・アーリーンが彼に近づいて来る。<br /><br />
「この前少し片づけたと思ったのに元通りにしやがって、まったく」<br /><br />
「何の用だディズ」<br /><br />
　相手のほうも見ず彼は云う。<br /><br />
「まただらしのない格好を。きちんと上着の前くらい合わせたらどうだ」<br /><br />
　云いながら伸ばしてくるディズラッドの手を払い、彼はひどくゆっくりとボタンをとめはじめる。ディズラッドは苛立たしそうに足踏みをする。<br /><br />
「早くしろよ。時間がないんだからさ」<br /><br />
「何の時間だ」<br /><br />
「知らないのか。二点鐘の時間に、聖王陛下が何か発表することがあるそうだ。それでみなリクリスの掌に集まっているんだぞ。さあ、わかったら早くしろ」<br /><br />
「そんなもの&hellip;&hellip;」<br /><br />
　云い終わるか終わらぬかのうちに、着替えが終わったと見るやディズラッドは彼をなかば無理矢理立ち上がらせた。空いた手にはいつのまにか彼の第一近衛正装が抱えられている。<br /><br />
　よく見るとディズラッドもまたいつもの白銀の鎧と帯剣だけの第二正装ではなく、純白のマントに聖王家の紋の入った兜をかぶった第一正装をしている。<br /><br />
「いまリクリスの掌はすごい混雑だからな。第一正装をして軍務のふりしたほうが入りやすい。さあクライも」<br /><br />
　彼はされるがままに着慣れた鎧を着け、兜をかぶり、こちらはあまり着慣れぬマントをも身に着けた。<br /><br />
「よし。&hellip;&hellip;そういやお前の第一正装の姿を見るのは久しぶりだな」<br /><br />
　ディズラッドは彼の姿を上から下まで子細に眺め回すと、一人で満足そうにうなづいた。<br /><br />
「悔しいがやっぱりこういったかしこまった格好はお前のほうが似合っているな」<br /><br />
「だからどうしたというんだ」<br /><br />
「似合うって云ってるだけさ。よし行くぞ」<br /><br />
　ディズラッドは彼の腕を引っ張り、外へと連れていく。<br /><br />
　彼は聖王の発表とやらにも別に興味はひかれなかったし、人で混雑しているというのならリクリスの掌になど行きたくもなかったが、そういったことを説明するのも面倒くさく、また云ったところでいままでの経験上ディズラッドが無理矢理にでも連れて行くであろうことは明らかにわかったため、別のことを口にした。<br /><br />
「腹が空いているんだ。少し待ってくれ」<br /><br />
　彼はいたって普通にそう云ったのだが、足を止め振り向いたディズラッドの目は、不思議なものでも見るように大きく見開かれていた。<br /><br />
「腹&hellip;&hellip;減ってるって、そう云ったのか」<br /><br />
「ああ、起きたばかりで何も口にしていないからな」<br /><br />
「そう、か&hellip;&hellip;そうだよな。よし、いまは祭りだからな、あちこちに出店がいっぱいあるはずだ。行きながらどっかで買おう。何か食いたいものはあるか」<br /><br />
「いや、べつに」<br /><br />
「それじゃあ俺が何か上手いもん探してくるよ。俺そういうの探すの得意なんだぜ。さ、行こう」<br /><br />
　彼の手を引いて駆けるディズラッドの顔には笑みがあった。<br /><br />
　<br /><br />
　　　　　　　　　　＊<br /><br />
　<br /><br />
　扉を開き足を一歩踏み入れると、そこには一昨晩に訪れた青い薄光の漏れる暗い部屋があった。<br /><br />
　彼は驚き振り向いた。彼はまだ塔の入り口の扉を開き、一歩目を踏み出したばかりで、あの長い階段を昇ってはいないはずなのだ。<br /><br />
　だが振り向くそこにあるのは暗闇と扉が触れもせずに閉まる気配ばかりで、彼がいましがた歩いてきた荒れ果てた庭園の姿はなかった。<br /><br />
「驚くことはない。くだらぬ手妻だ」<br /><br />
　声のほうに向くと、一昨晩と同じように魔道士が離れた場所で見えない椅子に腰掛けていた。<br /><br />
「くだらない、か。俺には十分に得体の知れぬ魔道に思えるが」<br /><br />
「なに、本当にくだらぬことよ。座るがよい」<br /><br />
　勧められるままにその場に腰を下ろすと、やはり一昨晩と同じように見えない椅子がそこにあり、彼の身体を柔らかく包み込んだ。<br /><br />
「いったいどのような魔道を用いたのだか。塔の入り口とこの部屋の入り口の空間をでも繋げたか」<br /><br />
「そのようなたいそれたこと、できぬでもないがする必要はない。いまのは私のほんの悪戯だ。塔に入ってからこの部屋に足を踏み入れるまでの間のお前の記憶を消去しただけだ」<br /><br />
「記憶を消去&hellip;&hellip;」<br /><br />
「お前は実際は昨晩と同じように螺旋階段を昇ってこの部屋を訪れた。だがその間の記憶が失われたため塔の入り口の扉を開けてすぐにこの部屋を訪れたと思いこんだに過ぎない。くだらぬまやかし、手妻だよ」<br /><br />
　老人とも若者ともとれる奇妙な響きの声音は昨晩同様、白い仮面の下から漏れている。<br /><br />
　魔道士は炎の点ったろうそくを仮面の前に捧げるように持っており、その炎の赤いゆらめきが仮面が昨晩とは違うことを教えていた。<br /><br />
　昨晩の仮面は白く滑らかで眼の場所にちょうどの大きさの穴の空いているほかに何もないものであった。いま魔道士の着けている仮面は昨晩のと同様白く滑らかではあったが、人の顔が彫られている。<br /><br />
　彫られた顔は彼の、というよりこの国の者ならば誰もが知っている顔であった。<br /><br />
「陛下の仮面か」<br /><br />
　彫られているのは聖王イル・サイナス・ラフォン・トリータ一世の、平原中に知られる美貌であった。<br /><br />
　精巧にできた仮面であった。長く微妙にカールしたまつげの一本一本までもが緻密に彫りこまれ、薄い唇に一見ではわからぬほどにさりげなく紅の塗られている様子は、昼に彼が仰ぎ見た聖王の顔をどこまでも精密に模倣しているように思われた。<br /><br />
　だか、と彼は思う。<br /><br />
（すさまじく精密ではあるが、しかしどこも聖王陛下には似通っていない）<br /><br />
　違いは明瞭であり同時に不条理でもある。<br /><br />
　そこにいるのがイル・サイナスではない、というだけの。<br /><br />
　聖王イル・サイナスは《違う》のだ。<br /><br />
　例え遠くから姿を仰ぎ見るだけでも、またかすれるほどのわずかな声を聞くだけでも、イル・サイナスがその場にいるというだけであまりにも世界は違ってしまう。<br /><br />
　空に太陽があれば人は暖かさをどうしても知るであろうし、なければなおその不在は重く寒く人の上に影を落とすだろう。<br /><br />
　仮面は正確にイル・サイナスのうわべの美貌を模倣しているだけに、聖王の非凡なるが容姿に由来するものでないことを明確に人に伝えていた。<br /><br />
　イル・サイナスは美貌の青年であるがしかし、民衆をひきつけてやまぬのは彼の容姿ではなく為政の才覚ですらなく、そこに彼が立つときに発生する場を制する力、どうしてもイル・サイナスを見ずにいられなくさせる云わば雰囲気なのだ。<br /><br />
　いたしかたのないことではあるが無論仮面からはそのようなものはいっさい感じられない。だから仮面は良くできたものではあったが、どこも聖王に似通ってはいなかった。<br /><br />
　それらの感慨を、彼は一言で評す。<br /><br />
「悪趣味だな。外したほうがいいと思うが」<br /><br />
「手厳しいな。だが私とて好き好んでつけておるわけではない。このような仮面、つけておっても聖王と比べてあまりにも醜い己を知らされるだけだ。比べること自体が陛下に対する無礼であろうしな。この仮面は魔道の道具だよ。お前は、二点鐘の聖王の発表を聞いたか」</p><br />
<p>　　　　　　　　　　＊</p><br />
<p>　彼がたどり着いたとき、巨大な広場を埋めつくしなおあふれさせるほどの民衆が集っていた。どの顔も期待に満ちあふれている。<br /><br />
　彼はすぐさま引き返したくなったが、彼の腕を掴む力がいっそう強くなり、それを許さなかった。<br /><br />
「どいたどいた。近衛隊だ。近衛隊だぞ。急いでいるんだ。通してくれ」<br /><br />
「なんだよ、横から入ってくるなよ」<br /><br />
「うるせえ、こっちは大事な仕事の真っ最中なんだよ」<br /><br />
　ひょうひょうとした顔でそのようなことを怒鳴ったり怒鳴られたりしながらディズラッドは彼を引っ張って進んでいく。<br /><br />
　いくら進んでも人混みは終わることなく続き、彼はこの都にはこれほどの人間が住んでいたのかとうんざりした。まるでこの国の全ての者がここに集まっているようだ、と。<br /><br />
　不意に彼を引っ張っていく力が消え、彼の視界からディズラッドの姿が消えた。<br /><br />
　と、思うと一瞬後には再び現れ、腕には拳よりも大きな肉饅頭が二つ抱えられていた。<br /><br />
「食えよ。うまいぞ」<br /><br />
　云われるままに手渡された饅頭の一つを口に運ぶと、熱い肉汁が口中にあふれ出した。「&hellip;&hellip;うまい」<br /><br />
　肉饅頭を口にして初めて、自分が己から望んで食物を口にするのが実に久しぶりなことであるのに気づいた。ここのところずっと食欲などわかなかったから断食同然の食生活だったのだ。<br /><br />
　その間もディズラッドがよく食事を持ってきていたが、自分からは決して手を出さず、業を煮やしたディズラッドになかば無理矢理に食べさせられる以外に食事を取らなかったし、そうして食べたものもじきに吐いてばかりいたのだった。<br /><br />
　いまはそのようなことはなかった。一ヶ月ぶりに空腹を感じて、一ヶ月ぶりに己から食事をとっているし、吐き気も襲っては来ずただ純粋に肉饅頭をうまいと思った。<br /><br />
（復讐を成し遂げるまでは生きなければならない）<br /><br />
　その思いが彼の身体に生きろと告げ、食欲を蘇らせたのかもしれない。<br /><br />
　だとしたらなんと皮肉なことだろうか。<br /><br />
　彼の内心を知るよしもなく、ディズラッドは彼を引っ張りながら振り向き、笑顔で、「うまいだろう」と云う。彼は黙ってうなずいた。<br /><br />
　人混みの中に、見慣れた格好の者が一列に並んでいるのが見え始めた。全員が手に長槍を持っている。警備兵だ。幾十人もいるが、うちの一人が彼らのほうを見て大声で話しかけてきた。<br /><br />
「ようディズ。また仕事をほったらかしか」<br /><br />
「いまは非番だよ。それよりジグ、そこ空いてないか。混ぜてくれよ」<br /><br />
　いいぜ、と男は二人を後ろに引っ張り込んだ。<br /><br />
　急なことだったので彼は食べかけの肉饅頭を落としそうになり、あわてて口にくわえる。<br /><br />
「危ねえな」<br /><br />
「混雑しているんでな。連れの人も悪かったな。&hellip;&hellip;そこ、こっちは民間人は立入禁止だぞ」<br /><br />
　引っ張り込まれた警備兵の列の後ろはほかのところよりはずいぶんと空いているが、ディズラッドと同じように非番らしい兵士の姿も多く、やはり混雑しているといえばしていた。<br /><br />
　彼は先程ディズラッドと話していた男が、以前同じ兵舎に寝泊まりしていたジグであることに気づいた。ディズラッドにとってもそうであるので、見知っているのは当然のことだ。しかしジグのほうは彼が誰なのか気づく様子もない。<br /><br />
　無理もないだろう、いまの痩せこけて暗い眼をした彼が、あのクライ・ローデンスであるなどと誰がわかるであろうか。<br /><br />
　大聖堂の鐘が二点鐘を鳴らした。<br /><br />
　バルコニーの純白のカーテンが開き、その人は二日前と同じように眩しいほどに鮮やかな薄紫のマントをひるがえし悠然と人々の前に姿を現した。<br /><br />
　たちまち大地も割れんばかりの大歓声が轟き、都中を揺らした。あまりのうるささに彼は思わず耳を塞いだが、じきにその人が優雅に両手を天に向けて差し伸ばすと、一瞬にして世界に静寂が落ちた。その手には金色の杖が握られている。<br /><br />
「我が親愛なる神聖イルナー王国の民人達よ」<br /><br />
　圧倒的な存在感を持った玲瓏な声が響きわたる。その人の金色の髪は風もないのには波打っているようだった。<br /><br />
「余は汝らの統治者にして守護者、神聖イルナー王国第十七代聖王、イル・サイナス・ラフォン・トリータ一世である」<br /><br />
　恍惚とした溜息が巨大な広場のあちらこちらから聞こえた。<br /><br />
「余の使命はこの神聖なるイルナーの大地を邪悪なる者の手より守り、我が祖イル・フェイズより伝わる守護者の血を次なる世代に残すことにある。余はそのためにはなにをも惜しまない。だが親愛なる人々よ。余は汝らに謝罪をせねばならない」<br /><br />
　謝罪、というその人にはおよそそぐわぬ意外な言葉に、人々はどよめいた。<br /><br />
　聖王は続けた。<br /><br />
「余はその神聖なる使命を果たせぬやもしれぬ。昨夜、余の夢に天の使いが訪れた。その御方は十の翼を持つ天使長の一人、ソフィナルード様であった。ソフィナルード様は余にこう告げられた。『お前は生涯子を為すことはないであろう』と」<br /><br />
　今度こそ、驚愕と絶望の入り混じった声が広場を覆いつくした。彼の隣のディズラッドもまた人一倍大きい悲鳴じみた声を上げていた。<br /><br />
　イル・サイナスの世継ぎ問題、それはひそやかにではあったが、即位より十年の間、常に取り沙汰されてきたことであった。イル・サイナスは直系王族の最後の一人であったからだ。<br /><br />
　相次ぐ戦乱のため、イルナーの正統なる血を引くものは、イル・サイナスの父、先王イル・ジャオスや腹違いの二人の兄王子、ギルアス・ロード、カイラス・ツィーズをはじめ、みな死に絶えてしまっていた。<br /><br />
　イル・サイナスを除いた王族で現在生きているのは相当な傍流だけとなってしまっている。だから、人々は正統なる血を引いた王国の跡継ぎ、すなわちイル・サイナスの子の誕生を待ち望んでいた。<br /><br />
　だが、即位より十年、いまだ吉報は人々に告げられていない。<br /><br />
　それでもいつか、今年こそは今年こそはと思いつつ、人々は次なる王の誕生を待ち望んでいた。<br /><br />
　イル・サイナスがいる限りイルナーは安泰だと信じながら、しかし例えいくら高貴な身の者ですら、いつかは死ぬ、その時この国はどうなるのかと、不安に怯えながら。<br /><br />
　世継ぎのいないこと、それだけが誰もが盤石と信じるイル・サイナスの治世のただ一点の陰であった。<br /><br />
　そして人々がイル・サイナスに陰を拭い去る言葉を期待し続けたにもかかわらず、その人が口にしたのは陰を形ある絶望へと導くような言葉であったのだ。<br /><br />
　それゆえのどよめきであり、それゆえの悲鳴であった。人々の絶望は聖都中を揺るがすかと思われた。<br /><br />
　が、それを止めたのもやはりその人、聖王イル・サイナス自身であった。<br /><br />
　凄まじい喧噪の中から何か固い金属を強く打ちつける音が鳴り、世界を制する声が今度は威圧的な響きをこめて轟いた。<br /><br />
「静まれ。静まるのだ」<br /><br />
　イル・サイナスが手に持った杖を床に叩きつけた音であった。<br /><br />
　次いでリクリスの掌を囲んだ警備兵が一斉に槍の柄を地面に叩きつけると、暴徒となりかけた民衆が瞬時にして静まった。<br /><br />
「ソフィナルード様はこのような混沌を望み余に預言をされたのではない。聞くが良い。ソフィナルード様はまたこうも云われた。『だが遠からぬ日、お前は祝すべき出会いをするであろう。その出会いは主ローネスの導きであると知れ。汝とその民人を神はお見捨てにはならない。信じよ、そして待て』と」<br /><br />
　静まり返った広場をイル・サイナスは輝く金の瞳で睥睨すると、うっすらと唇を開き、太陽のように眩しく微笑んだ。<br /><br />
「余は愚かなる人間の身にして、大いなる主の御心の全てを理解はできぬ。だが主よりこの地を預かる守護者として汝らに約束しよう。余を信じよ。イルナーの永久なる安息のためには余は何をも厭わぬ。大神ローネスを信じよ。神聖なるローネスが見守る限り、イルナーは安泰である。案ずるな。ここに余が居、そして天上にローネスがおられるのだ。神は我らを救い給う。神聖イルナー王国に、神の加護と栄光はあれり」<br /><br />
「万歳」<br /><br />
「聖王陛下万歳」<br /><br />
「神聖イルナー王国万歳」<br /><br />
　いつしか広場は一昨日と同様、聖王を讃える声に包まれていった。<br /><br />
　聖王イル・サイナスのいるところ、常に拍手と歓声に包まれるのだ。<br /><br />
「大神ローネス万歳」<br /><br />
「聖王大祭万歳」<br /><br />
「イル・サイナス陛下万歳」<br /><br />
「万歳」<br /><br />
　だが周囲が熱狂に包まれ、歓声が高まるにつれて、彼の心には奇妙な疑念のような気持ちがわきあがってきた。<br /><br />
（これはおかしいかもしれない）<br /><br />
　いかに美貌の人であり、優れた為政者であるとはいえ、民衆の聖王に向ける信頼は異常であると、彼は冷めた頭で思った。<br /><br />
　聖王は世継ぎ問題に対しただ信じよと云っただけで、現実的な意味での解決など何一つしていない。にもかかわらず、その言葉を誰もが受け入れてしまっている。<br /><br />
（たばかられている&hellip;&hellip;）<br /><br />
　思いもかけず、そのような言葉が頭に浮かんだ。<br /><br />
　人々は彼の思いから遠く、すでにイル・サイナスの去ったバルコニーに歓声と拍手を投げかけるのみであった。</p><br />
<p>　　　　　　　　　　＊</p><br />
<p>「魔道&hellip;&hellip;あれはあるいは&hellip;&hellip;」<br /><br />
　彼の口から漏れたつぶやきを聞いたか聞かぬか、彼が物思いから冷めると、聖王と同じ、だがあの圧倒的な支配力は持たぬ面が、白い石の瞳で彼を見ていた。<br /><br />
「聖王の言葉、聞いたようだな」<br /><br />
　彼がうなずくと、魔道士が手に持ったろうそくの炎が揺れ、消えそうなほどに炎が萎んだが、すぐに元通りに燃えはじめる。炎はこの暗闇の部屋において唯一の確かな命のように思われた。<br /><br />
「『祝すべき出会い』&hellip;&hellip;私はそれを捜さなくてはならない」<br /><br />
「ふん&hellip;&hellip;」<br /><br />
　彼は眼を細めてその言葉の意味を探る。<br /><br />
「つまり、陛下に下されたのは神託などではなく、魔道の呪言であった、ということか」<br /><br />
　魔道士はそれに答えず言葉を続けた。<br /><br />
「私は陛下の代行として『祝すべき出会い』を捜す。そのために陛下の仮面をつけているのだ」<br /><br />
　意味はわからなったが、どうせ説明されても分かりはしない。魔道は異質であるのだ。<br /><br />
　彼は黙ってうなずく。<br /><br />
「さて、お前は昨日私に依頼したことの成果を知りに来たのだな」<br /><br />
「無論だ」<br /><br />
「だが私はお前に謝罪せねばならない。お前の望み、私には叶えてやれそうもない」<br /><br />
　彼はかっとして立ち上がろうとしたが、いつのまにか彼の身体は例の見えない力で自由を奪われていた。<br /><br />
　仕方なく怒りを込めた視線だけを魔道士の白い仮面に向ける。<br /><br />
「ふん&hellip;&hellip;。あれほど御大層な講釈を垂れていた禁忌だの魔道だのとやらの力も、その程度のものなのか。期待などした俺が愚かだった」<br /><br />
「そういうわけではない。魔道にはお前の望みを叶えることなど容易い」<br /><br />
「では何故だ」<br /><br />
「陛下だ。私は『祝すべき出会い』を捜さねばならない。陛下の下命は何よりも優先されるのだ」<br /><br />
「ならば陛下の命のあとでもいい」<br /><br />
　彼は少し安堵しそう云ったが、白い仮面は左右に揺れた。<br /><br />
「それができぬと云っているのだ。陛下の命を果たすには、魔道の段階を幾らか引き上げねばならぬ。そのため私はおそらく今宵《カイラ・グゥンの闇》に堕ちる」<br /><br />
「カイラ・グゥン&hellip;&hellip;」<br /><br />
　初めて聞く言葉であった。<br /><br />
　しかし初めて聞く言葉でありながら、その響きに背筋を凍らせるような凶兆めいたものを感じ、彼は総毛立った。<br /><br />
「なんだそれは」<br /><br />
「《カイラ・グゥンの闇》は《カイラ・グゥンの闇》だ。他の何でもない。だがそうだな、一般的に最もそれに近い概念は、死だ」<br /><br />
「死&hellip;&hellip;」<br /><br />
「この世界より滅し、二度と戻っては来ぬという意味で同じというだけだがな」<br /><br />
　彼はようやく何故魔道士が彼の望みが叶えられぬと云ったか理解した。<br /><br />
　例えどれほど優れた者でも、死した後には何もできるはずがない。<br /><br />
「ならば陛下の命を果たす前に俺のをできないのか」<br /><br />
「無理だな」<br /><br />
「何故だ。容易いと云ったではないか」<br /><br />
「陛下の下命は何よりも優先されると云ったであろう。お前は陛下よりも優れた者なのか。それとも何か相応した見返りを私にくれるとでも」<br /><br />
「俺にできることならなんでも&hellip;&hellip;」<br /><br />
「いらぬわ」<br /><br />
　魔道士の言葉は激しかった。<br /><br />
「お前ごときに何ができる。私を《カイラ・グゥンの闇》より救い出してくれるとでも云うのか。私に望みがあるとすればそれぐらいのものだ。だがそれは何者にもどうあっても不可能なことなのだ。お前ごときにできることなど何もないわ」<br /><br />
　彼は魔道士の激しい剣幕に押され頭を垂れた。<br /><br />
　剣幕と云ってもその面は白い仮面でしかなかったのだが、その時だけ仮面はまるで生ある者のごとく叫びを上げたように彼には感じられた。<br /><br />
「&hellip;&hellip;私とて、先にやれるのならばやっている。《カイラ・グゥンの闇》へ堕ちるのにやり残したことがあるのは心苦しい。だがお前の願いを叶えるのと陛下の命を果たすのとに使われる魔道は性質が同じなのだ。陛下のほうが遙かに膨大なエネルギーを必要とするがな。同質の魔道を短期間に使用することはできぬ」<br /><br />
「&hellip;&hellip;わかった」<br /><br />
（所詮復讐に他者の力を借りようなどと、虫の良い話だったのだ）<br /><br />
　彼は血の味がするほど唇を噛みしめた。<br /><br />
「わかった。いらぬ世話をかけてすまなかった」<br /><br />
「ぬか喜びをさせてしまったな。できれば叶えてやりたかったものだが。&hellip;&hellip;クライ・ローデンス」<br /><br />
　仮面の瞳がひたと彼を捉えた。<br /><br />
「なかなかに楽しかったぞ。お前は私にとって十年ぶりに会う人間であった。これも何かの縁と思い――神の下された縁ではないだろうが――力を貸してやりたかったのだが」<br /><br />
「かまわない。無理を云ったのは俺のほうだ」<br /><br />
　いままであまりにも異質で遠く感じられた魔道士の言葉が、急激に近く感じられ、彼は内心戸惑った。<br /><br />
　しかし、その戸惑いを整理しきるよりも前に、魔道士が別れを告げた。<br /><br />
「さらばだ、クライ・ローデンス。もし、万が一にもお前が《カイラ・グゥンの闇》に堕ちたのならば、また会おう」<br /><br />
　彼が最後に覚えている魔道士の姿は、青光の中、いつものようなずたぼろの黒衣に身を包み、己の眼前に炎の灯ったろうそくを掲げているものだった。<br /><br />
　その顔に着けられた白く美しいが決して表情と云うものを持たぬはずの仮面が、微笑んでいるように思われたのは彼の気のせいであったか。<br /><br />
　いずれにしろ彼がそれを認識するかせぬかのうちに、ろうそくの炎はひときわ大きく燃え上がると唐突に消え失せ、青光も同時に途絶え周囲はまったくの暗闇に包まれた。<br /><br />
　彼が次に目にしたものは青く赤く咲き乱れる美しき庭園の姿であった。<br /><br />
（いつのまに&hellip;&hellip;。これもまたあの魔道士の悪戯か）<br /><br />
　もう会うこともないであろう魔道士の姿を彼は思い浮かべようとしたが、思い浮かぶのは魔道士の背負っていた闇と、なぜか聖王イル・サイナスばかりで、一昨晩に見たはずの魔道士の顔は不思議なほどに綺麗さっぱりと彼の心の内より消え失せていた。<br /><br />
「記憶の消去、か」<br /><br />
　呟いて彼が見上げた空は、いつの間にそれほどの時が経っていたというのか、やはり昇る日に赤く染まっていた。</p><br />
<p>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; ＊</p><br />
<p>　かくして、彼はひとたび身を浸した魔道の世界より、正常なる人の世に戻る機会を得た。<br /><br />
　聖王大祭の夜、たまたま三夜続けて奇妙な夢を見たのだ、そう思い叶わぬ復讐に囚われながらもありうべき本来の生のまっとうを選択することも、この時点の彼にはできた。<br /><br />
　だが彼はそれを選び取らなかった。<br /><br />
　ゆえに、運命は彼と神聖イルナー王国とを絡めとり、想像もせぬ地平へと彼を連れ去って行く。<br /><br />
　その運命を、時に人は「愛」と呼ぶ。あるいは「妄執」と。</p><br />
<p>&nbsp;</p><br />
<p>&nbsp;</p>]]></content:encoded>  
    <dc:subject>聖王大祭</dc:subject>  
    <dc:date>2008-03-04T11:24:28+09:00</dc:date>  
    <dc:creator>うなぎ</dc:creator>  
    <dc:publisher>NINJA BLOG</dc:publisher>  
    <dc:rights>うなぎ</dc:rights> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/57/"> 
    <link>http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/57/</link>  
    <title>第四夜</title>  
    <description>&amp;amp;nbsp; 「本日三点鐘の刻より近衛隊所属クライ・ローデンスの聖王城北第十四地区夜間警備の任を解く。同時に特殊警備隊として夜間警備に任ずる。以上」 「了解。本日三点鐘の刻より特殊警備隊として夜間警備に就任いたします」 　彼が復唱すると、近衛隊隊長ランドロゥ・バグスティルは深い溜息を吐きながら...</description>  
    <content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p><br />
<p>「本日三点鐘の刻より近衛隊所属クライ・ローデンスの聖王城北第十四地区夜間警備の任を解く。同時に特殊警備隊として夜間警備に任ずる。以上」<br /><br />
「了解。本日三点鐘の刻より特殊警備隊として夜間警備に就任いたします」<br /><br />
　彼が復唱すると、近衛隊隊長ランドロゥ・バグスティルは深い溜息を吐きながら、後ろに撫でつけてまとめた頭髪を豪快に掻き回した。<br /><br />
「わからん。クライ。何をしでかした。何故こんな短期間に二度も警備部所の変更をさせられる」<br /><br />
　彼の横に立つディズラッドが茶々を入れる。<br /><br />
「隊長。そんなに掻き回していると髪型が崩れますよ」<br /><br />
「放っておけ。俺は部屋から一歩でたらお偉いさん達のつきあいでお上品ぶらなければならんのだ。自分の部屋でくらいだらしなくさせろ」<br /><br />
「ですが、あまり力を入れると、髪が抜けますよ」<br /><br />
　ランドロゥはぴたりと腕を止める。ディズラッドは笑った。<br /><br />
「ディズは黙っていろ。クライ、これはまったくどういうことなんだ。何故聖王陛下がお前の警備部所を気になさる。お前と聖王陛下には何の関係があるのだ。お前の警備部所を変えることにいったいどんな意味があるというのだ」<br /><br />
「さあ、尊き御方のお考えになることは私などにはわかりかねます。私が聖王陛下にお声を掛けていただいたのも、近衛隊の入隊式の時だけですし」<br /><br />
　彼の言葉に、ランドロゥは一度は止めた腕を再び頭に持っていき、しきりに「わからん、わからん」と繰り返す。その様子をディズラッドはにやにやとしながら見ている。<br /><br />
「隊長、あまり悩みすぎると禿げますよ」<br /><br />
「ディズは黙っていろ。&hellip;&hellip;まったく、そんな歳でもないってのに、本当に禿げそうだ。ただでさえ祭りの馬鹿騒ぎのせいで心労が絶えないと云うのに」<br /><br />
「今年はどれだけ出ていますか」<br /><br />
　ランドロゥは手元の机上に置いてある紙を取り上げる。<br /><br />
「今朝の報告までで、民間人の死者が二十五人。負傷者が百六十八人。軍の死者は一人&hellip;&hellip;ああいや、今朝見つかったので二人か。負傷者は三十八人。やれやれ、いやになるな。報告されているだけでこれだ。実際はどれだけ死者が出ていることやら。大祭はまだあと四日もあるってのに」<br /><br />
　何のための祭りなのやら、とまた深い溜息を吐くランドロゥを遮り彼は云う。<br /><br />
「隊長、警備に着任せねばならないので、退室してもよろしいでしょうか」<br /><br />
　彼は返事を待たず踵を返し、扉に手をかける。<br /><br />
　その背中にランドロゥの太い声がかかる。<br /><br />
「待て、クライ。云っておくことがある」<br /><br />
「なんでしょうか」<br /><br />
「&hellip;&hellip;クライ、お前は良くやっている。だが、あまり無理をするな。なんだったら休暇をやる。休め」<br /><br />
「&hellip;&hellip;それは除隊勧告と受け取ってよろしいのでしょうか」<br /><br />
「馬鹿野郎。そんなことではない。&hellip;&hellip;お前の恋人の不幸は聞いている。俺は心配なんだ。このままではお前は潰れちまうぞ」<br /><br />
　ランドロゥの言葉は隊長という職務を超えた真摯な響きを持っていた。<br /><br />
　武芸の腕はもとより、その非常に厚い人間味が隊内外の絶大な信頼となり、ランドロゥを近衛隊長とならしめているのだ。<br /><br />
　だがそれすらもいまの彼にとっては鬱陶しいものにしか過ぎない。<br /><br />
「私は軍務に支障をきたしているでしょうか」<br /><br />
「違う。俺は隊長としてでなく、個人として心配しているのだ。ローデンスの名を持つ奴は俺の兄弟のようなものだからな」<br /><br />
　孤児のクライは、近衛隊に入隊するとき、形式上ローデンス家の養子扱いとなっている。<br /><br />
　ランドロゥもまた、隊長となりバグスティルの名を賜る前は、彼と同じローデンス家の養子扱いになっていたのだ。<br /><br />
「兄分として云わせてもらう。これ以上無理をするな。ゆっくりと休め」<br /><br />
「隊長命令ならば従いましょう。そうでないと云うのなら、軍務に支障をきたさない限り従ういわれはありません。そろそろ三点鐘の刻です。失礼いたします」<br /><br />
「クライ」<br /><br />
　ランドロゥのまるで懇願するような声を背に、彼は隊長室を出た。ディズラッドもすぐに後を追いかけるようにして出てきて、彼の背を捕まえる。<br /><br />
「クライ」<br /><br />
「お前も着任だろう。急いだほうがいい」<br /><br />
　いつも通りの彼の態度に、ディズラッドは予想通りと云わんばかりに肩をすくめる。<br /><br />
「つれないなクライ。一緒に行こうぜ」<br /><br />
「ディズはいつも通り街に出るのだろう。俺は王城区から出るつもりはない」<br /><br />
　ディズラッドの手を振り払い、彼は足早に前を見て歩いていく。<br /><br />
「クライ、お前もたまには街のほうに」<br /><br />
「断る」<br /><br />
　二言もない彼の云いように、ディズラッドは困ったように唇を尖らせたが、やがて急に何かを思い出したかのように神妙な顔をした。<br /><br />
「あの、さ、クライ。お前、昨日の夜とか、その前の夜とか、その、どうしていた」<br /><br />
　言葉の意味を理解しかね、彼はディズラッドの顔を見た。<br /><br />
「昨晩と一昨晩は、神の庭の門の警備をしていた。お前も知っていたことだろうに。&hellip;&hellip;あそこは、王城の奥にあるわりには、夜はなかなか冷えるのだな。風の通りが良いのか」<br /><br />
　うしろめたさが彼をいつもより饒舌にしていた。<br /><br />
（だがどうせ俺があの塔を訪れることは二度とはないのだ）<br /><br />
「わかっていたことではあるが、相当に退屈でもあったな。やはり特殊警備隊に戻れて良かった」<br /><br />
　ディズラッドは彼の顔をしばらくのぞき込んでいたが、また急にあの生命そのものとでも云ったような笑顔を浮かべ、駆け出した。<br /><br />
「そろそろ本当に時間だ。じゃあなクライ。またあとで」<br /><br />
　ディズラッドを見送ると、赤く染まった夕の空に三点鐘が鳴り響いた。<br /><br />
　彼は特殊警備隊の任に着いた。<br /><br />
　と云っても、自己の裁量での判断が許され、各自で行動を取る特殊警備隊であるから、彼は見回りと称して勝手気ままに聖王城内を歩き回るだけだ。<br /><br />
　数多くの警備兵がそこかしこに立ち、宝石をちりばめた衣装を盛大に着飾った貴族達が夜空の星々のようにあちらこちらで輝きながら行き交った。<br /><br />
　中には彼と同じように近衛隊の者もいて彼に話しかけたり、そこまでいかずとも軽く頭を下げたりしたが、それら全てを適当にあしらいながら彼は人の少ないほうへと歩き続ける。<br /><br />
（俺はこの先どうすればいいのだ）<br /><br />
　そんなことばかりを考えて歩く。<br /><br />
（奴等を許すことなど、やはりできはしない。復讐は為さねばならない。だが、どうすれば奴等を見つけることができる。魔道も扱えぬ、ただの人の身に過ぎない俺が）<br /><br />
　懐に入れたものを取り出す。<br /><br />
　四つの翼を持つ天使を象った耳飾りだ。<br /><br />
　彼がフェミナに贈ろうとしてついに叶わなかった、アルパーダの耳飾り、それを握り締める。<br /><br />
（魔道）<br /><br />
　魔道さえ己に扱えたなら、と彼は思う。そうならばことは容易いのだ。<br /><br />
（せめて陛下の下命があと幾日か遅ければ）<br /><br />
　いくら考えてもせんないことであると知りながら、それを思わずにはいられない。<br /><br />
　と、そう考えているうちに、彼はふと気づいた。<br /><br />
（あの魔道士は昨夜死んだ――正確には《カイラ・グゥンの闇》とやらに堕ちたそうだが、しかしそれではいまはあの塔はどうなっているのだ。主を失ったままなのか。この争乱の時に、聖王が魔道の力を手放すものか）<br /><br />
　彼は三つの夜に魔道士が語った言葉を思い出す。<br /><br />
（そういえば、あの魔道士は聖王家によって存続させられた魔道士の家系の最後の一人である、といっていた。だがもし奴が真実は最後の一人でなかったとしたら&hellip;&hellip;。そうだ、あのような強大な力を手放すはずがない。きっと他にも魔道の家系は残されていたのだ。そしていまは他の魔道士があの塔にいるのではないか）<br /><br />
　彼は進む足を早めた。<br /><br />
　物思いにふけるうちに夜は深くなり、窓から覗く月は怪しく輝き彼を照らし出していた。<br /><br />
　赤くすらも見える月光を浴びながら、彼は神の庭へと急いだ。<br /><br />
　じきにたどり着いたそこには、初めに彼が訪れたときと同じように、少年兵が一人で門を警備していた。だがあの時の少年兵とは違う。<br /><br />
「御苦労。何も異変はないか」<br /><br />
「はいっ。ありませんっ」<br /><br />
　一目で近衛隊であるとわかる彼の白銀の鎧を見てだろう、少年兵は緊張した面持ちで答えた。<br /><br />
　神の庭に入るには、この少年を追い払わなくてはならない。<br /><br />
　どうすべきかと思案しながらさりげなく話を続ける。<br /><br />
「初めて見る顔だな。この前、大祭の一日目だったか、ここを訪れたときには、君と同じ年頃の別の少年が警備していたと思ったが」<br /><br />
　その言葉は彼にとっては話の接ぎ穂でしかない、どうでもよいことであったのだが、聞いた少年兵は不意に青ざめ顔をうつむけた。<br /><br />
「ああ、ティートですね、きっと&hellip;&hellip;ティートは死にました。殺されたそうです。今朝&hellip;&hellip;もう昨日ですね、朝方死体が発見されたそうです」<br /><br />
　夕刻に聞いたランドロゥの言葉を思い出す。<br /><br />
（軍の死者は一人&hellip;&hellip;ああいや、今朝見つかったので二人か）<br /><br />
（なるほど。それではそのティートとやらが昨日の朝に見つかった軍の死者であると云うわけか）<br /><br />
「そうか&hellip;&hellip;。そいつは気の毒なことだ。大祭ともなると、民間人にも軍にも少なからぬ死傷者が出るからな」<br /><br />
「違います。大祭とか、そういう問題じゃありません。&hellip;&hellip;なんで、なんで大祭だからというだけで、ティートがあんな惨い死に方をしなければならないんですか。あんなにあんなにたくさん刺されて&hellip;&hellip;」<br /><br />
　少年兵の声は淡々としていたが、激しかった。<br /><br />
「喉と心臓と、反対の胸まで切り裂かれて&hellip;&hellip;どんなに苦しかったろうかと&hellip;&hellip;ティートが、ティートがいったい何をしたと云うのですか。あんな惨い殺され方をしなければならないような何を」<br /><br />
　少年兵は途中から彼を見ていなかった。<br /><br />
　彼に視線を向けながらも、どこか遠くを虚ろに見つめている。<br /><br />
　だがそのようなことよりも、少年兵の言葉が彼の心を揺り動かした。<br /><br />
（喉と心臓と反対の胸を切り裂かれて&hellip;&hellip;）<br /><br />
「その死体はどこで見つかった」<br /><br />
「そこですよ。すぐそこですよ。その窓のすぐ外、すぐそこですよ。そこでティートは一人で寂しく死んでいたんですよ。止めれば良かったんだ。僕がティートを止めていればこんなことには&hellip;&hellip;」<br /><br />
　己の想念に耽っていたため、言葉の意味を理解せず理解しようともせず、彼はただその事実を利用した。<br /><br />
「&hellip;&hellip;わかった。ここの警備はお前一人なんだな。すぐに帰れ。ここは危ない。その少年が死んだのはこの場所と何か関係あるのかもしれない。ここは私が預かる。お前は兵舎に帰れ。報告の必要はない。私が報告しておく。それと他言はするな。犯人はおそらくまだ目的を達していない。またこの近辺に来るかも知れぬ。そこを捕える。これは近衛隊で内密に処理する。他の部隊の手出しは無用だ」<br /><br />
　早口でまくしたてる彼に少年兵は自失した眼を向けると、泣いたまま頷き去っていった。<br /><br />
　その心のうちを彼は知らぬし、知ろうともしない。少年兵がいなくなり周囲に誰も見当たらなくなると、かがり火が彼の歪んだ笑いを赤く染め上げた。<br /><br />
（奴等がいる。この都のどこかに、まだ奴等はいるやもしれぬ）<br /><br />
　神の庭の門を開けると、そこに広がるのは荒涼とした大地と、闇に浮かぶ漆黒の塔。<br /><br />
　彼は迷いもなくそこに向けて足を踏み出した。<br /><br />
（これは大神ローネスの導きだ。悪を正せと、復讐を為せと。塔には新たなる主がいるはずだ。神の導きであるならば。ローネスよ、もしそうであるならば、私があなたに捧げた二十数余の歳月の祈りは無駄ではなかったのですね。ローネスよ。大いなる神ローネスよ。いま私はあなたを信じましょう。私に導きを。私に復讐の牙を与え給え）<br /><br />
　魔道、と己が口に出したのを彼は気づかなかった。<br /><br />
　魔道。<br /><br />
　それは彼を導くもの。<br /><br />
　破滅と妄執と愛と、その全てを彼に与え、また奪うもの。<br /><br />
　そのことをすら、彼はいまだ知らない。己の開いている扉が、真実の狂おしき世界への最後の扉であるということをすら、いまだ彼は知らぬのだ。<br /><br />
　<br /><br />
　　　　　　　　　　＊<br /><br />
　<br /><br />
「あんた誰だい」<br /><br />
　彼の目に飛び込んでくるのはまるで真昼のごとくにこうこうと焚かれたかがり火。<br /><br />
　視線を下ろせば淡い緋毛繊のじゅうたんが広がり、その上には百人も座すことのできるテーブルがある。<br /><br />
　それぞれの席の前には古今東西、あらゆる素材と技術を惜しみなく使い作られた食事が湯気をたてており、それら全てを見下ろすように広間の突き当たりには巨大な像、腕の無い英雄神リクリスの像がある。<br /><br />
「招待した憶えはないんだけど」<br /><br />
　彼の耳に飛び込んでくるのは優雅な弦の調べ、人々の囁き交わすひそやかな笑い声。<br /><br />
　鼻をくすぐるのは甘い香料の香り。<br /><br />
　いずれも、彼にとってはよく見知った類のもの。<br /><br />
　王城区のそこかしこで、また貴族達の邸宅で毎夜催される、華やかな宴。<br /><br />
　全てがそれを示している。<br /><br />
　だがここにいるのは、彼と、あとたったの一人であった。<br /><br />
「ああ、そうか。わかったぞ。あんた爺様の云っていた奴だね」<br /><br />
　テーブルには座る者はなく、無論供された料理を食す者もない。<br /><br />
　どこまでも続く無人の席のその先、上座にただ一人だけが座している。<br /><br />
「お前が、この塔の新たな主なのか」<br /><br />
「そうだよ」<br /><br />
　その者は立ち上がり、テーブルの脇に出、その姿を彼の前に晒す。<br /><br />
　淡い青の胴着の上に、袖のゆったりとした金糸の刺繍入りの白の上衣を着、腰には濃紺のサッシュを締めている。<br /><br />
　四肢はすらりと伸び、非常に細い両の手首にはいくつもの腕輪がはまっている。指の先に目を転ずれば、深い赤や緑を煌めかせ無数の指輪がある。<br /><br />
　顔の輪郭は繊細なラインを描き、金と銀が入り混じった頭髪の間から彼を見る瞳の色は晴れ渡る空のごとき紺碧。<br /><br />
　少しだけ厚ぼったい唇と、肩のところで奇麗に切り揃えられた髪型が、どこか平原外の世界を思わせる。<br /><br />
「僕がこの塔の主。正真正銘最後の魔道士さ」<br /><br />
　少年は、美しかった。<br /><br />
　少年であった。<br /><br />
　その、まるで異国の王族のごとき装束に身を固め彼を迎え入れたのは、彼よりも一回りは歳の違う、美貌の少年であった。<br /><br />
「あんたが僕の塔の、最初の客だ。こっち来なよ。そんなところに突っ立っていないでさ。いま宴の最中なんだ」<br /><br />
　特定の年齢に達さぬ少年特有の、男でも女でもない美しい響きを持つ声に招かれるままに、彼は少年に近づく。<br /><br />
　近くまで行くと、少年はやや長身の彼よりも、頭一つ分は小さかった。<br /><br />
「さあ、座りなよ」<br /><br />
　細い腕が近くの椅子を指し示すために振られると、手首にはまった幾重もの腕輪が軽やかに鳴った。<br /><br />
　彼は言葉に従い指し示された椅子に座る。目に見えぬものでも、不可思議な白い突起でもなく、鮮やかな彫刻のなされた、いかにも高級そうではあるが彼の見慣れた類の普通の椅子であった。<br /><br />
　少年は彼の隣の席に同じように腰を下ろす。<br /><br />
「どうしたんだい、ぼうっとして」<br /><br />
　少年は彼を見ながら唇だけつりあげ、内心のよく読み取れぬ笑みを浮かべた。<br /><br />
「&hellip;&hellip;いや、昨晩までの部屋とはえらく様相が違うのでな」<br /><br />
　ああ、と少年は笑い声を上げた。<br /><br />
　声は無邪気なように聞こえたが、顔は唇をつりあげるばかりで、表情が分からない。<br /><br />
「爺様、趣味が悪いんだもんな。あんな薄気味の悪いもんばっかり揃えて何がしたかったんだか。あんまり悪趣味だったから、僕の好みに変えたんだよ」<br /><br />
「その爺様と云うのは、昨日までここにいた&hellip;&hellip;」<br /><br />
「そうそう、先代のあの爺様。あんたのことも爺様から聞いてるよ。なんだかくだらないことに魔道の力を使いたいんだってね」<br /><br />
　少年の言葉があまりにも冷淡でそっけなく吐かれたものであったためか、彼はただ軽く頷いた。もし己の復讐を下らぬことなどと他の者が云っていたならば、彼はおそらく怒り狂っていただろう。<br /><br />
「その爺様は、どこへ行ったのだ」<br /><br />
「あれ、聞いてなかったの。《カイラ・グゥンの闇》に堕ちてったよ。で、僕が次の主に選ばれて堕ちる直前の爺様に色々と教えてもらったわけ」<br /><br />
「ああ&hellip;&hellip;。それでは祝すべき出会いとやらは」<br /><br />
「ん、見つかったみたいだね。僕が出てきた結果を伝えといたけど。たぶん明日かな、王様がなんか発表すると思うよ。でも、あの程度の魔道を使うのに《穴》を開けなきゃならないだなんて、爺様、魔道の才能無かったのかな」<br /><br />
　少年はまた無邪気に笑う。<br /><br />
「ねえ、あんた、名前なんてんだっけ」<br /><br />
「&hellip;&hellip;クライ・ローデンスだ」<br /><br />
「近衛隊だって、爺様云ってたっけ」<br /><br />
　少年は身を乗り出して彼の白銀の鎧に触れ、「へえ」と、感心したような声を漏らす。<br /><br />
「思ったよりも立派なもんなんだな、近衛隊の鎧って」<br /><br />
「ああ」<br /><br />
　生返事をしながら、彼のほうもまた（ずいぶんと小さい手だな、俺の半分ほどしかないのではないか）などと考える。<br /><br />
　少年の小さな掌は、続いて彼の頬に伸びてきた。<br /><br />
「へえ、爺様の云っていた通りだ。ひどいもんだね、あんたの顔。ちゃんと飯食ってないでしょ」<br /><br />
　少年の掌は石かなにかのようにひんやりと冷たく、背筋に震えが走ったが、それは決して悪寒ではなかった。そしてまた、これは彼自身も気づいていないことであるが人一倍他者に触れられることを嫌う彼が、己の顔を触れさせてそのままにさせておくのは珍しい事であった。<br /><br />
　少年が頬をさすると、彼の眼前で手首にはめられた大きな金や銀、磨き上げた真鍮の色をした腕輪がぶつかり合って澄んだ金属の共鳴音をたてる。<br /><br />
　音は不愉快ではなく、むしろ耳に心地よいものであったが、何となく彼は落ち着かず、かといって無理に振り払う気にもなれず、ただやんわりと少年の手首に触れ「冷たいな」とだけ云った。<br /><br />
（なんと頼りなげに細い腕だ）<br /><br />
「ああ、ごめん」と云って少年がその手を引くと、今度は何か惜しいような心持ちがした。少年の掌の冷たさは彼の頬が火照っていたことを教え、心地よかったのだ。<br /><br />
　彼はその気持ちを紛らわすように言葉を捻り出す。<br /><br />
「&hellip;&hellip;あの魔道士を爺様と呼ぶと云うことは、やはり同じ家系の人間なのか」<br /><br />
「ん、知らない」<br /><br />
　少年は云う。<br /><br />
　視線はすでに興味を失ったというように彼から外され、己の指にはめられた色とりどりの巨大な宝石に向けられていた。<br /><br />
「外のことは、もう全部忘れちゃったからね。家族なんて分からないよ」<br /><br />
「外のこと&hellip;&hellip;」<br /><br />
　彼が不思議に思い呟くと、少年は一瞬だけ彼に紺碧色の瞳を向け「ああ」と云った。<br /><br />
「この塔の主になるにはね、いろいろ儀式がいるんだよ。魔道の使い方とか、塔のどこに何があって何ができるかとか知らなくちゃいけないし。で、そのうちの儀式の一つにね、塔に入るまでの記憶を全部消すっていうのがあるんだ。だから僕は家族のこととか知らないし、以前に同じ儀式をしたはずの爺様も知らなかったみたい。だから家系がどうとか、わかんないよ。自分について調べないと云うのも、塔の主の掟だしね。って云うか、調べられないようになっているんだけど」<br /><br />
　昨日までの己を捨ててきたことを、少年はこともなげに云う。<br /><br />
「ああ、でも自分に関すること以外の知識はなくなっていないから、あまり困らないよ。でも、僕のような子供を選ぶってことは、もう他には魔道士はいないんだろうね。それとも僕の才能が他の人よりもずいぶんと上だったのかな。なんだかずっと塔にこもっていた爺様よりも僕の魔道のほうが上みたいだし」<br /><br />
「&hellip;&hellip;お前の名は&hellip;&hellip;」<br /><br />
「だから、忘れてしまったってっば。自分のことは全部忘れたの。いいじゃないか名前なんて。名前なんてさ、ただの記号でしょう。似たようなものをわかりやすく区分するための」<br /><br />
「記号&hellip;&hellip;、ああ、そうか」<br /><br />
　思わず、彼は頷いた。<br /><br />
　過去、彼はただの孤児のクライであった。それが近衛隊に所属することになるとローデンスという名を与えられ、彼自身は何一つ変わらぬと云うのに彼はただのクライから、クライ・ローデンスとなった。<br /><br />
　彼には少年のいうことが理解できた。名前とは、他者にわかりよく理解される記号でしかない、と。<br /><br />
　そして、他人は本質は何も変わらずともその記号だけで人を判断するのだ、と。<br /><br />
「僕にはさ、そんなのはいらないよ。だって僕に似た奴なんて、誰一人いないんだからさ。僕は世界で唯一の魔道士なんだから」<br /><br />
　少年の瞳は炎に照らし出され誇らしげに輝いた。<br /><br />
「僕は世界でたった一人の僕なんだ」<br /><br />
「&hellip;&hellip;なるほど。しかし、それでは俺はお前のことをなんと呼べばいいのだ」<br /><br />
「好きにしなよ。僕だってわかりさえすればなんでもいいよ。お前、でもなんでもさ。どうせ僕とあんた以外には、ここを訪れる人間なんていないんだし。さて、それじゃそろそろ行こうか」<br /><br />
　少年が不意に立ち上がると、その全身にまとった華麗な装飾品の数々が、見目同様の麗しい音をたてる。<br /><br />
「行く&hellip;&hellip;とは、どこへ」<br /><br />
「何云ってんのさ。あんた、恋人の仇討ちしたいんじゃなかったの。やってあげるよ。僕も魔道の練習をしたかったから丁度いいし」<br /><br />
　少年は彼に背を向け、部屋の出口へと向かう。<br /><br />
　彼はその後についていったが、それは少年の言葉に従ったと云うよりも、少年の薄い肩や細い首筋をほとんど無意識に眼で追ううちにそのような形になっただけ、と云えた。<br /><br />
　二人が部屋を出ると、すぐに後ろで扉が閉まる気配がした。<br /><br />
　振り返った彼はぎょっとして眼を見開いた。<br /><br />
　ゆっくりと閉まっていく扉の向こう、ついさきほどまで彼らのいた、あのこうこうと明りのたかれた人のいないパーティー会場の大広間が、どこにもなかった。そこにあるのは陰欝とした何もない部屋であった。<br /><br />
　たった一つのしゃれこうべを除いては。<br /><br />
　それは少年の姿と言葉に、しばし己のいる場を忘れかけた彼に不意に叩きつけられた魔道の世界であった。<br /><br />
（いまの光景は現実であったのだろうか。さきほどの宴の部屋と、いまのしゃれこうべの部屋と、果たしてどちらが現実でありどちらが幻であるのか）<br /><br />
　彼が瞬時思いに耽ると、その思いを読んだかのように軽やかな声が笑いをともない狭い通路に響いた。<br /><br />
「魔道にはね、大別して二つの種類がある。一つが、物理的に物事を動かす力。もう一つが、人の精神に作用する力。これは、どちらも世界を造り替える力と云える」<br /><br />
「世界を造り替える&hellip;&hellip;物理的&hellip;&hellip;精神&hellip;&hellip;」<br /><br />
　意味がわからず、ただ彼は馬鹿のように少年の言葉を繰り返す。<br /><br />
「わからないかな。じゃあ、これでどう」<br /><br />
　少年が暗闇の中でひらりと手を振ると、突然に月明りのような淡い光が周囲に満たされた。彼らの下る螺旋階段には採光窓など一つとしてないというのに。<br /><br />
「これはね、さっき云ったのの、最初の方。物理的にってやつ。これ――そういって彼に開いてみせる少年の小さな掌には、エメラルドのような緑光を自らたたえる丸い石が握られていた――を使ってね、明りを点けただけだよ。で、これをこう使うとね」<br /><br />
　緑光の石を少年が撫でるように触れると、それを凝視していた彼の視野は、一瞬真暗になった。<br /><br />
　と思うと、次に視界が開けたとき、先程まで下に向かっていた階段が、いつのまにか上に向かっている。<br /><br />
「こうなるの。どう、上下が逆転したでしょう。これが人の精神に作用するってこと。&nbsp;《さかしまの術》とでも呼べばいいのかな。これ、実際はさ、何も変わってなんかいないんだよ。ただ、あんたの世界を見る眼、感じる眼を、ほんの少しいじくっただけ。というよりも、おかしくなってたあんたの眼を、正常な状態に戻しただけなんだけどね。だって、さっきの部屋はこの塔の一番下にある地下室だったんだからね。いままでがおかしかったんだよ」<br /><br />
　それから彼は少年の後を夢見るようなおぼつかない足取りで、ただただ追い続けた。<br /><br />
　少年はというと、塔を昇り続けながら輝く紺碧の瞳――少年の瞳はどのような暗闇のもと、あるいは光のもとでも一際強く輝き続けていた――を通り過ぎる部屋に向けては、時に立ち止まり室内に入ると、そこにある怪しげな魔道装置を愛でるように撫でては、うっとりとした声で彼にそれらについて聞かせた。<br /><br />
「この水晶を見てご覧よ。これは魂吸いの水晶と云ってね、熱的なエネルギーを無限にだって閉じ込めることができる物なんだ。&hellip;&hellip;この書がなんだかわかるかい。これはね、あのロズ・グリークァイの残した魔道理論書なんだってさ。これには人に永遠の命を与える魔道や、空を飛ぶ魔道、大地を枯らす魔道とか、いろんなことが記されているんだって。凄いだろう。&hellip;&hellip;あれはいにしえの神の血に濡れた剣。初代聖王イル・フェイズが伝説の神殺しの時に使ってた剣だって。それ以来いくら拭っても洗っても刀身から血が消えないんだってさ。面白いなあ。&hellip;&hellip;あれは」<br /><br />
　少年は昨日まで闇と沈黙が制していた塔を、細い体を軽やかに跳ねさせながら行き来し、彼のほうは少年の言葉にただ頷きながら、その姿を追った。<br /><br />
　やがて緑光が二人の前方に点ると、少年はそこへ飛び込んでいった。<br /><br />
「到着っと」<br /><br />
　その部屋は狭く両手を伸ばした大人が二人もいれば両端に届くかという程度の大きさしかない、円形の部屋であった。部屋の中央には彼と同じほどの大きさの巨大な輝く緑石がある。<br /><br />
　それは先程少年が手の内に握っていたものと同質の物と見え、他に明り一つないのに鮮やかに光っていた。<br /><br />
「さて、それじゃあ調べてみるよ。確かこの前のアルパーダの日、イリーク大通り、二点鐘の刻だったね」<br /><br />
　彼は頷く。少年が若枝のように細く伸びやかな指をうねらすと、そこにたわわに実った大粒のルビー、サファイヤ、ダイヤモンド、ラピスラズリとアクアマリンが緑光を受け怪しく光り、少年を幻想的に彩った。<br /><br />
　周囲の壁が淡く青く光った。<br /><br />
　壁だと思われたのはあの硝子板であり、彼はそこに浮かび上がる映像を見た。<br /><br />
　大通りだった。多くの人間が大通りを行き交っているその少し上空からの映像である。<br /><br />
　音はないが、せわしなく動き回る人々が、街の活気を伝えている。<br /><br />
　その人通りの中を、一際せわしなく、振り返り振り返り走っていく青年の姿がある。<br /><br />
　逞しい肉体を躍動させ駆けるその青年が、自身、クライ・ローデンスであると知り、彼は映像の示すところを悟った。<br /><br />
　映像は、あの時の、彼がフェミナを失ったあの時の映像であった。<br /><br />
「へえ、楽しそうだね。まるでいまと別人だ。ふーん、ああ、なるほど。あいつらがやったのか」<br /><br />
　映像は彼が夜毎見る夢の映像そのままを、そっくり繰り返した。彼は走り、フェミナから少し離れ、その直後、彼女の横を通り過ぎた三人の黒い鎧の者の腕に、鈍い金属の閃き。<br /><br />
　フェミナは血を吹き倒れ、黒鎧の者は去り、ただ号泣する彼だけが残される。幾度も見た光景だった。彼が幾度も夢に見、そして叫びうなされ、そのたびごとに呪いと誓いを強めていった、あの光景。<br /><br />
　だがなぜであろうか、いまその光景は彼に何も与えなかった。<br /><br />
　何も。つまらない退屈のほかには何も。<br /><br />
　彼は動揺した。<br /><br />
　その光景にではなく、その光景に何も心動かされぬ自分に対し、動揺した。<br /><br />
（この一月、復讐だけが俺の全てであったはずだのに）<br /><br />
「ふーん、つまり、あいつらが今どこにいるのか調べればいいんだね。なんだ、簡単じゃないか。二日もあればできる。他にはなんか手がかりはないの」<br /><br />
　問われて反射的に彼は答える。<br /><br />
「昨日の朝、神の庭の門を警備していた兵が殺された。その手口が奴等に似ている」<br /><br />
　答えはしたが、得たときにはあれほど彼を興奮させたこの手がかりが、いまは奇妙なほどに詰まらぬことに思えた。<br /><br />
「なんだ、そんな手がかりまであるんだ。じゃあ、一日でいけるな。明日。明日までには調べてあげるよ」<br /><br />
　少年の言葉に、彼は「頼む」とだけ告げる。<br /><br />
　少年は金と銀がまばらに彩る髪を掻き上げ、笑った。<br /><br />
「そうしたら、あんた、何でもしてくれるんだってね」<br /><br />
　それはひどく無邪気な、なのにその瞬間時が止まったかと思わせるような、とても冷たい微笑みだった。<br /><br />
　彼はその微笑みを見つめ、そしてそこから目を離せなくなった。<br /><br />
「&hellip;&hellip;そうだ。何でもしよう。俺にできることなら何でも。この命すら捧げる」<br /><br />
　黒衣の老魔道士に誓った言葉をいま一度繰り返しても、言葉にはあの時のような狂的な熱はこもらなかった。<br /><br />
　その熱はいま、視線にこもっていたので。<br /><br />
「覚えておくよ、その言葉。&hellip;&hellip;さあ、戻ろうか。今日は帰りな。明日までに、すべて調べ上げておくから。送ってあげるよ。行こう」<br /><br />
　涼やかな音を立てすっと少年は彼に近づくと、氷のように冷たい掌で彼の腕をつかんだ。そして彼を引っ張りながら、歌い、踊りながら長い螺旋階段を下り始めた。<br /><br />
「踊ろうよ。僕はいま凄く機嫌がいいんだ。とっても、とってもね。こんないい気分は初めてだ」<br /><br />
　少年の声は天にまで響きわたるかと思うほど高く、そのステップは羽根がついているかのように軽かった。<br /><br />
　円舞曲、輪舞曲、夜想曲に狂詩曲、賛美歌から鎮魂歌まで、手当り次第に少年は歌い踊り、しかしそのいずれもが彼の心を震わす見事なものであった。<br /><br />
　いつまでも尽きることのないような階段を下りながら、いつまでも尽きることのないように少年は心のままに歌い踊った。素晴らしき世界を謳歌した。<br /><br />
　そして彼は少年の造り物のごとく美しく、壊れ物のように繊細なかんばせを睨み続け、一瞬たりとて目を離しはしなかった。<br /><br />
　いや、離せなかったのだ。　<br /><br />
　少年は、歌い続ける。<br /><br />
　<br /><br />
　<br /><br />
　　せかいはぼくのもの<br /><br />
　　あの空はぼくのもの<br /><br />
　　あの星はぼくのもの<br /><br />
　　あの海はぼくのもの<br /><br />
　　あの山はぼくのもの<br /><br />
　　あの森はぼくのもの<br /><br />
　　あの風はぼくのもの<br /><br />
　　あの人はぼくのもの<br /><br />
　　せかいはぼくのもの<br /><br />
　　せかいはぼくのもの</p><br />
<p><br /><br />
　美しく軽やかな声で歌い続ける。</p><br />
<p>　　　　　　　　　　＊</p><br />
<p>　いつ果てるとも知れぬほどに長き階段も、上り詰めたのと同じ長さでやはり終わる。<br /><br />
「じゃあね、また明日」<br /><br />
　まるで馴染んだ友を送るように少年は彼を送り出した。子供のように再会を約して。<br /><br />
　彼は塔の厚く重い扉が閉まり、闇の中にその姿が完全に消え去るその瞬間まで少年の瞳を見続けた。シィリズの海原よりも深く、神の座す空よりも澄んだ紺碧色の瞳を。<br /><br />
（なんてことだ）<br /><br />
　彼はほとんど絶望したように思った。<br /><br />
（なんてことだ&hellip;&hellip;。俺は&hellip;&hellip;俺は&hellip;&hellip;）<br /><br />
　絶望と苦渋とが幾度も頭の中を徘徊し、掻き回し、彼の脳髄をぐちゃぐちゃとしたただの肉塊へと変えているようだった。<br /><br />
　彼は混乱した。絶望と、そして妄執と、二つながらの想いに引き裂かれ、彼の口から野獣のような絶叫がいましも漏れそうになった。<br /><br />
　その時。<br /><br />
「死ねっ」<br /><br />
　まだ幼いとすら云ってよい声が、彼が呆然とたたずむ神の庭へと響き渡った。<br /><br />
「死ねっ死ねっ死んでしまえっ」<br /><br />
　彼の心は己の想念に囚われそれを認識しなかったが、しかし長年そうあるように鍛えられた肉体は、無意識にその声の方を向き直ると、瞬時に腰に差した剣を抜き放ち、彼に向かいくる月光に光る刃を叩き落とした。<br /><br />
「くそっ、くそっ、なんでなんだよ」<br /><br />
　得物を失ってもなお彼に体ごとぶつかってくる少年兵を、彼は無意識ゆえに流れるような動きで組み敷く。<br /><br />
「なんでなんだよ&hellip;&hellip;なんで笑うんだよ&hellip;&hellip;」<br /><br />
　襲撃者は、神の庭の門を警備していた少年兵であった。<br /><br />
　少年兵は彼のからだの下で身動きを封じらられたまま、全身を震わせ叫んだ。<br /><br />
「なんで笑うんだよ。あなたのせいで&hellip;&hellip;あなたのせいでティートは死んだんだぞ。なのになんでティートが死んだのを聞いて貴方は笑うんだよ。&hellip;&hellip;なんで笑うんだよ」<br /><br />
　彼の麻痺していた心はようやく己が命を狙われたという事実を認識した。<br /><br />
　だが、襲撃者の言葉の意味は理解できず、ただ無表情に少年兵の赤らんだ顔を見る。<br /><br />
　それがより激昂を誘ったのか、少年兵はますます顔を赤くして叫んだ。<br /><br />
「わかんないってのか。あなたが、ここの警備に回されたのを自分のせいだってティートは思い込んで、それで少しでもあなたを手助けしたいってあの窓の外にいたんだ。そのせいで&hellip;&hellip;そのせいであんなひどい殺され方をしたんだぞ。あなたのせいだ。あなたの。なのになんで笑うんだよ。ティートが死んだのに、なんで嬉しそうに笑うんだよ」<br /><br />
　少年兵は泣いていた。怒りとも悲しみともつかぬものに全身を震わせながら泣き、叫んでいた。<br /><br />
「俺は、笑っていたか」<br /><br />
　少年兵は答えない。憎しみのこもった眼で彼を睨むばかりだ。<br /><br />
「そうか&hellip;&hellip;」<br /><br />
　彼は少年兵のいましめを解き立ち上がった。<br /><br />
（笑っていた、か。それは復讐を為す喜びの為か、それともあの少年との出会いを感じ取っていたか）<br /><br />
　からだが自由になると、少年兵はすぐに立ち上がり先程弾かれた剣を拾い上げる。<br /><br />
　彼は予感を感じ取っていた。<br /><br />
　破滅の予感を。<br /><br />
　フェミナを失った絶望と復讐に囚われた現在よりも、なお深淵なところへと己が堕ちていくような予感を。そしてそれが導く最終的な破滅を逃れる、これが最後の機会であるという感覚。<br /><br />
　少年兵が剣を構え、彼に向けて突進してくる。彼は己の剣を手離し、全身の力を抜いた。<br /><br />
「あなたのせいで&hellip;&hellip;あなたのせいで&hellip;&hellip;」<br /><br />
　運命からの逃走。<br /><br />
　導かれる破滅を厭い、彼は少年兵の刃を受け入れた、その筈であった。<br /><br />
　だが彼は知る。逃れ得ぬから、運命なのだと。<br /><br />
「馬鹿野郎。なにしていやがる」<br /><br />
　彼に達する直前で、少年兵のからだは吹き飛んだ。<br /><br />
　倒れた少年兵の上へ、逞しい青年の影ときらめく銀の剣が覆い被さり、ためらいもなく振り下ろされた。<br /><br />
　断末魔はなかった。<br /><br />
　影の主は立ち上がり、血に塗れた少年兵の死体を抱えると彼をどやしつけた。<br /><br />
「何をしている。早く出ろ。こんなところを見つかったら終わりだぞ。早く」<br /><br />
　彼は黙ってディズラッド・アーリーンの浅黒く精悍な、しかしいまは青ざめた顔を見た。<br /><br />
　そこにはこれ以上ないほどの悲哀の表情があった。<br /><br />
「早く。何をぼうっとしている」<br /><br />
　ディズラッドは神の庭を出たすぐのところに少年兵の死体を捨て置くと、彼のところへとって返し腕をつかみ、彼を力づくで引っ張った。<br /><br />
「これは俺がなんとかうまく処理する。お前は部屋に戻っていろ。いいか、お前は今日はここに来ていない。ここに来たのは俺だけだ。お前は何も云うな。黙っていろ、いいな」<br /><br />
　再び麻痺した頭の片隅で、彼はぼんやりと思ったことを口に出した。<br /><br />
「なんで、あそこにいたんだ」<br /><br />
「&hellip;&hellip;」<br /><br />
「ディズ&hellip;&hellip;あの警備の少年を殺したのか」<br /><br />
「&hellip;&hellip;あっけないんだよな。結構、あっけないもんなんだよな&hellip;&hellip;人が一人が死ぬってのは&hellip;&hellip;」<br /><br />
　それだけ云い、後はお互い黙り込む。<br /><br />
　二人は朝日が上り始め、赤く染まり出した回廊を歩き続けた。<br /><br />
（なんということだ）<br /><br />
　彼は絶望を感じていた。<br /><br />
　己の命が狙われたこと。<br /><br />
　己のためにディズラッドが人を殺めたこと。<br /><br />
　そしてほんの幾刻か前には彼の全てであったフェミナの仇討ち。<br /><br />
　それら全てが、いまや彼にはどうでもよいことのように感じられていた。<br /><br />
（なんということだ&hellip;&hellip;なんという）<br /><br />
　これほどの目にあって、なお彼の脳裏に焼き付いて消えぬもの、先程から彼の頭にこびりつき打ち払えぬもの。<br /><br />
　それは若枝のごとき細くしなやかな長い指。そこに実る大粒の宝石の果実。<br /><br />
　それは美しき金と銀のまだらの髪。その隙間から覗く紺碧の瞳。<br /><br />
　それは壊れ物のように薄い肩。そのうえにまとう鮮やかな白の上衣の間に白い肌。<br /><br />
　冷たい指先。澄んだ声音。軽やかなステップ。不思議な微笑み。<br /><br />
（なんということだ&hellip;&hellip;）<br /><br />
　何もかもが色褪せた。彼にとっての全てであったフェミナ・ハイアッドの顔をすら彼はもはや思い出せない。<br /><br />
　それは絶望だった。<br /><br />
　彼は自分か壊れたのを理解した。<br /><br />
　彼がクライ・ローデンスでいるための最後の一欠片。フェミナを愛した心をすら、彼は失ってしまったのだ。<br /><br />
　<br /><br />
　　あの人はぼくのもの<br /><br />
　<br /><br />
　少年が美しく高き声で唄っているのが聞こえたような気がした。</p><br />
<p>　　せかいはぼくのもの</p><br />
<p>　彼の絶望を孕みながら、聖王大祭は五日目を迎えようとしていた。</p><br />
<p>&nbsp;</p><br />
<p><br /><br />
</p>]]></content:encoded>  
    <dc:subject>聖王大祭</dc:subject>  
    <dc:date>2008-03-04T11:23:31+09:00</dc:date>  
    <dc:creator>うなぎ</dc:creator>  
    <dc:publisher>NINJA BLOG</dc:publisher>  
    <dc:rights>うなぎ</dc:rights> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/56/"> 
    <link>http://unagi0924.blog.shinobi.jp/Entry/56/</link>  
    <title>第五夜</title>  
    <description>「それでは紹介しよう。余とイルナーにとっての祝すべき出会い、余とイルナーの希望、我が兄王子ギルアス・ロードの子にして我が甥、神聖なるイルナー王家の血を継ぐ者、ダグナス・ロード、ここへ」 　その人がどこまでも造作の整った顔を振り、太陽のごとき笑みをもたらしながら『祝すべき出会い』を民衆に示すのを...</description>  
    <content:encoded><![CDATA[<p><br /><br />
「それでは紹介しよう。余とイルナーにとっての祝すべき出会い、余とイルナーの希望、我が兄王子ギルアス・ロードの子にして我が甥、神聖なるイルナー王家の血を継ぐ者、ダグナス・ロード、ここへ」<br /><br />
　その人がどこまでも造作の整った顔を振り、太陽のごとき笑みをもたらしながら『祝すべき出会い』を民衆に示すのを、彼は冷めた思いで見ていた。<br /><br />
「見よ、まだ幼いというにこの勇ましき顔立ちを。まるで我が兄が帰ってきたようではないか」<br /><br />
「本当だ」<br /><br />
「ギルアス様だ。ギルアス様の御子だ。間違いない」<br /><br />
「この剣を見よ。これこそかつて兄ギルアスがその武勇を讃えられ父王イル・ジャオスより与えられた宝剣〈フェイズ・エイルラーン〉である。兄がリンクラウドの卑劣なる罠により戦場で無念の死を遂げてより行方の知れなかったこの剣を携え、ダグナスは余の下へと参ったのだ。この顔、この剣、そして余の身内に流れる聖王家の血が、ダグナスこそ正当なるイルナーの後継者であると告げている。聞け、人々よ。余はここに宣言する。余はダグナスを王太子とし、我が後継者とする。これこそソフィナルード様の言葉の真意である。讃えよ。崇めよ。これは大いなる主、ローネスの意志である。余をもってするのと同様に、ダグナスを讃えよ。ダグナスこそローネスに選ばれし次代の聖王である。余と同様、神聖なるイルナーに永久の平穏をもたらす者であると知れ。讃えよ。崇めよ。さすれば余とローネスと、そしてダグナスとが汝等を守り導くであろう」<br /><br />
　聖王イル・サイナスの長口上が終わると、いつものように聖都中が歓声で沸き上がった。<br /><br />
　歓声の中、聖王の隣に立つ、まだ十になるやならずやといったところの少年が前に進み出、民衆に礼をし「ダグナス・ロード」だと告げると、またもや民衆は沸き上がった。<br /><br />
　彼は覚めた思いでそのさまのすべてを見ていた。<br /><br />
（確かに聖王陛下は美しい。この世に現出した奇跡と云えるだろう。だが、つまらないな）<br /><br />
　主君に対する畏敬の念は、彼自身が驚くほどに消え去っていた。<br /><br />
（つまらない。ありきたりな、わかりやすすぎる美だ。真実の美とはもっと独善的なものではないのか。人の心に安らぎではなく、胸を掻きむしるような苦しみをこそ生む）<br /><br />
　――あの少年のように。<br /><br />
「イルナーに栄光あり。大いなるローネスの加護あり」<br /><br />
「万歳。聖王陛下万歳」<br /><br />
「ダグナス・ロード様万歳。聖王家万歳」<br /><br />
（つまらない）<br /><br />
　彼は人混みの間を抜け、来た道を戻り始めた。<br /><br />
　たいして興味のあることではなかったが、あの少年が見ておけと云うから見に来たのだ。彼の行動にいちいち口を挟むうるさい者もいまはいないから、身軽である。<br /><br />
　人の波に逆らい兵舎に戻る頃には日は落ちかけていた。<br /><br />
　じきに三点鐘が鳴る。警備の時間が迫っている。そしてあの少年に会える時も。<br /><br />
　彼は軽い足取りで自室へと入った。<br /><br />
「&hellip;&hellip;遅かったな。クライ。どこへ行っていた」<br /><br />
　すでにかなり暗くなっている室内では、明り一つつけずにディズラッドが待っていた。<br /><br />
「リクリスの掌だ。おまえは行かなかったのか」<br /><br />
「ああ、陛下が何か重大な発表があるとか。云っていたっけ。忘れてたよ」<br /><br />
　まるで興味のなさそうにディズラッドは云う。<br /><br />
「何だったんだ。陛下の発表とは」<br /><br />
「ああ、ギルアス様の遺児が見つかったそうだ。ダグナス・ロードとか云った。聖王陛下はその子を王太子に据えるらしい」<br /><br />
「へぇ」<br /><br />
　たいして面白くもなさそうにそう云うディズラッドのありさまは酷いものだった。<br /><br />
　本来ディズラッド・アーリーンという青年は常に生気に満ちあふれ、いつも笑いながら前を向いて歩いているような男であった。<br /><br />
　それがいまのディズラッドは寝台に腰を下ろし、差す夕日にもかまいつけず俯いているばかりで、その姿からは生気がすっぽりと抜け落ちているように見えた。<br /><br />
「アルードって、云うんだってさ」<br /><br />
　ぼそりとディズラッドは呟く。いつもは彼が嫌になるほど快活なディズラッドが。<br /><br />
「あの、少年兵さ&hellip;&hellip;アルードって云うんだってさ。三月前に軍に入ったばかりだって。&hellip;&hellip;神の庭への侵入はローネスの冒涜、よって死罪。目撃者であり処刑者である俺は職務を果たしたものとして無罪」<br /><br />
　彼は何も云わず白銀の鎧を着、銀の剣を腰に差した。<br /><br />
　ディズラッドが笑った。<br /><br />
　耳障りな笑いだった。<br /><br />
「なあクライ、無罪だってさ。俺は、俺はさ、殺したんだぜ。年端もいかぬガキをこの手でさ。それが無罪だってさ。面白いよな」<br /><br />
「そろそろ三点鐘だ。俺は行くぞ」<br /><br />
「行くだと。どこへ行くつもりだ」<br /><br />
　不意に笑い止んだディズラッドは、彼の肩をつかみ険しい口調で云った。<br /><br />
「どこだ。どこへ行くつもりだ」<br /><br />
「警備だ。おまえは行かないのか」<br /><br />
　云いながらディズラッドの手を振り払おうとした彼の腕は、逆に激しく掴まれた。<br /><br />
「どこだ。どこへ行く。&hellip;&hellip;神の庭か。そうだな、あそこへ行くんだな」<br /><br />
　答えず去ろうとしたが、ディズラッドの腕は思いのほか強く、まるで彼の腕を握り潰そうとでもしているかのようで、身動きはできなかった。<br /><br />
「答えろクライ。神の庭へ行くんだな」<br /><br />
「&hellip;&hellip;」<br /><br />
「なぜだ&hellip;&hellip;なぜあそこへ行く&hellip;&hellip;。俺は、俺は殺しちまったんだぞ、おまえのために、人を殺しちまったんだぞ。なのになぜあそこへ行く。なんでなんだよ。なんでだ」<br /><br />
「&hellip;&hellip;」<br /><br />
「その眼だ」<br /><br />
　ディズラッドの腕がいっそう深く食い込んでき、骨の軋む音をたてた。<br /><br />
「なんだその眼は。どうしちまったんだよ、クライ。どうしちまったんだ。お前&hellip;&hellip;お前は近頃おかしいぞ。おかしいんだ」<br /><br />
　だがそう云い募るディズラッドもまた常軌を逸していた。<br /><br />
「あそこになにがある。お前はどこに行ってるんだ。お前は&hellip;&hellip;どこに消えちまっているんだ。俺は知っているんだぞ。昨晩だけじゃない。お前は神の庭へ入っているな、それも何度も。知っているんだぞ。三日前、大祭の二日目の晩、お前があの場所の警備を命じられたとき、俺は様子を見に行ったんだぞ。なのにお前はいない、待っていたらお前は神の庭から出てきた。違うか」<br /><br />
　ディズラッドの言葉に、彼はあの日の朝、誰かの気配を感じたことを思い出したが、それはまるで百年も昔の遠くの、どうでもいいことのように思われた。<br /><br />
「それからその次の日も、そして昨日も&hellip;&hellip;。俺は見ていたんだ。知っているんだぞ。お前は神の庭へ入ったな。冒涜だ。死罪だぞ。わかっているのか。だが&hellip;&hellip;だがわからない、お前はどこへ消えた。昨日も、その前も、お前は俺が影から見ている前で、消え、そして明け方突然戻ってきた。お前はどこに行ってた。そしていまどこへ行こうとしている。云え――云え」<br /><br />
「&hellip;&hellip;」<br /><br />
「その眼をするな。その眼だ、その眼をするな」<br /><br />
　ヒステリックにディズラッドは叫び、彼のからだを力一杯揺さぶった。<br /><br />
　しかしそれでも彼は<br /><br />
（太い腕だな。あの少年の腕はもっと細く、しかしもっとしなやかで美しかった）<br /><br />
　遠くそう思うばかりだ。<br /><br />
　それがよりディズラッドを激昂させているようだった。<br /><br />
「お前は&hellip;&hellip;ちくしょう、どうしちまったんだクライ。どうしちまったんだよ&hellip;&hellip;あの時だって&hellip;&hellip;フェミナが死んじまったときだってお前はもっとちゃんとしてたじゃねえか。悲しさで落ち込んではいたが、もっとまっとうだったじゃないか」<br /><br />
　フェミナ、という名に、彼のからだは一瞬だけ反応した。<br /><br />
　が、一瞬だけだった。すでに事切れたからだが衝撃に反応するように。<br /><br />
「いまは、違う。近頃のお前はまるで何かに取り憑かれちまっているようだぞ。そうだ、お前は何かに取り憑かれちまっているんだ。それは、なんだ。なんだ」<br /><br />
（あの少年に）<br /><br />
　彼は絶望的に緩慢な動作でディズラッドの青い瞳を覗き込みながら、あの少年の瞳は青だがもっと深くもっと澄んだ紺碧であったと思った。<br /><br />
　まさに彼は取り憑かれていた。<br /><br />
　なにもかもがあの少年の影のうちにあった。<br /><br />
　耳のうちに入る人の声にあの少年の声はもっと美しく響いたと思い、鼻に届く香にあの少年はもっと爽やかに草原を渡る風のような匂いがしたと思い、目に入る全ての人にあの少年の腰はもっと細く、あの少年の脚はもっとしなやかで、あの少年の指はもっと妖しく蠢いたと思った。<br /><br />
　彼は常に少年を思った。熱病に浮かされた幻影のように。<br /><br />
　そして少年を思うとき、それは黄昏時をともなった。<br /><br />
　妖しく淫らな、しかし無邪気な黄昏の魔物、それがあの少年だった。<br /><br />
　いまようやく黄昏が訪れた。彼が一睡もせず待ち望んだトワイライトが。<br /><br />
　なのにそれを遮る者がいる。<br /><br />
　疎ましいと、彼は思った。<br /><br />
　妨害ならば、排除するまでだ、と。<br /><br />
「どけ」<br /><br />
「クライ&hellip;&hellip;」<br /><br />
　ディズラッドの目が見開かれ、ついで泣きそうなほど悲しげな目で彼の瞳を捉え、しかし食いしばった歯の間からは怒りの言葉を漏らした。<br /><br />
「貴様&hellip;&hellip;貴様、俺は、俺は&hellip;&hellip;俺は貴様のために人を殺したんだぞ。貴様のために。それを、それを&hellip;&hellip;」<br /><br />
「どけ」<br /><br />
「貴様&hellip;&hellip;貴様」<br /><br />
　何かが打ち付けられる激しい音と視野の変化で、彼は自分が壁に叩き付けられたのを知った。<br /><br />
　ディズラッドの腕はなおも彼の上着の襟首を締め上げてくる。<br /><br />
「貴様は&hellip;&hellip;俺は&hellip;&hellip;。くそっ、くそっくそっくそっ」<br /><br />
　何度も彼の体は固い壁に叩き付けられ、そのたびに激しい音が辺りに響いた。<br /><br />
　それを聞きつけてだろう、誰かが「どうした」と叫んでいるのへ、ディズラッドか激しく叫び返す。<br /><br />
「黙ってろ。こっちの問題だっ。&hellip;&hellip;クライっ、いいか、死罪だ、死罪だぞ。わかっているのか」<br /><br />
　口を開こうとすると息が苦しく、ようやく彼は自分が酷く打ち据えられているらしい、ということに気づきながら、絶え絶えの口調で、それでも云った。<br /><br />
「&hellip;&hellip;手を&hellip;&hellip;放せ&hellip;&hellip;」<br /><br />
「貴様っ、目を覚ませ。目を覚ますんだよっ。フェミナが死んでおかしくなって、それでやっと少し元気が出てきたと思ったら、今度はもっとおかしくなりやがった。くそっくそっ、くそっ」<br /><br />
「手を&hellip;&hellip;放せ&hellip;&hellip;」<br /><br />
「ああっ、放してやるよっ」<br /><br />
　一際強く叩き付けられたと思うと、彼のからだは自由になったが、今度は眼前に銀の輝くきらめきがあった。<br /><br />
「死罪だっ。わかっているんだよな」<br /><br />
　突きつけられた近衛隊の証、入隊時に聖王より直々に拝される近衛隊の者にとっては云わば栄光であり忠誠の証である銀の剣を前に、彼は己のからだの具合を確かめながら、ゆっくりと立ち上がった。<br /><br />
「どけ」<br /><br />
　ディズラッドの返事は剣のゆらめきであった。<br /><br />
「行けるもんなら行ってみろよ」<br /><br />
　いっそ悲壮にディズラッドの言葉が響いた。<br /><br />
「俺を刺していけよ。でなければ俺が貴様を殺す」<br /><br />
　ためらいもなく彼は己の腰に差した剣を抜いた。<br /><br />
　ディズラッドの顔が歪んだ。<br /><br />
「ああ、そうかよっ、そうだよな。貴様っ、殺してやるよ」<br /><br />
　ろくに足場もない狭い室内で、主君の命を守るために捧げられた二つの剣は交じり合った。<br /><br />
　お互いによく知り馴染み、また多く似通った剣技であったが、しかしお互いの精神はかけ離れており、それが明暗を分けた。<br /><br />
　鋭く突き放たれたディズラッドの剣は、最後の瞬間で一瞬だけ緩み、それを弾き相手を蹴り上げる彼の動作には淀みがなかった。<br /><br />
　剣を落とし、床に這うディズラッドを、彼は何の感慨もなく見つめた。<br /><br />
　ディズラッドの腕が、落とした己の得物の方へと動く。<br /><br />
　彼はほとんど無意識に反応し剣を弾こうとしたが、一月余りも放りおかれ、いままた痛めつけられた肉体は彼の思惑を忠実に果たしはしなかった。<br /><br />
　標的を誤った彼の剣は、ディズラッドの右の手の甲を貫いていた。<br /><br />
「ッ&hellip;&hellip;」<br /><br />
　ディズラッドは声を上げなかった。<br /><br />
　ただ怒りとも悲しみとも、あるいは笑いともつかぬ顔を彼へと向け、云った。<br /><br />
「&hellip;&hellip;これでおあいこだな。&hellip;&hellip;俺の剣はアルードの血で汚れ、お前の剣は俺の血に塗れた&hellip;&hellip;」<br /><br />
　彼は剣を抜いた。ディズラッドは傷口を残った手で押さえ、床には剣から滴る血が見る間に黒い染みをつくっていく。<br /><br />
「&hellip;&hellip;行けよ&hellip;&hellip;行っちまえくそっ」<br /><br />
　彼は部屋を出た。<br /><br />
　多くの顔が室内の様子を伺っていた。それらにかまいもつけず、彼は足早に歩いた。<br /><br />
　好奇と不審に満ちた顔は黄昏の中に溶けていった。<br /><br />
「どこへでも行け。呪われろ」<br /><br />
　ディズラッド・アーリーンの声と姿もまた黄昏に溶けていき――そして永遠に失われた。</p><br />
<p>　　　　　　　　　　＊<br /><br />
　<br /><br />
「だあれ、あなた」<br /><br />
　一つ一つが丹念に織られたレースが幾重にも重なるドレスは純白、陰影がその白を彩り複雑な模様を造り上げる。<br /><br />
　刻一刻と変化する模様は時に神の横顔であり時に一本の巨木、時に天使の翼のようでもあり、時に女の顔が浮かび上がった。<br /><br />
　歳は十五か六か、幼さが抜け切る直前の少女と女の狭間にある年頃。<br /><br />
　ドレスに浮かぶ顔ではない。<br /><br />
　ドレスを身に付ける女の顔である。<br /><br />
　いつものようにのぼりつめた塔の最上階で彼を待っていたのは少年ではなく、目の前に立つ少女であった。<br /><br />
　ドレスの裾は脚をすっぽりと覆い隠し、反面袖は薄い肩までも露にしている。<br /><br />
　肘から下を覆うのは白に錯覚かと思うほどほんの少しだけ青みがかった長手袋。<br /><br />
　髪は月光を映し銀、それは何一つ飾り立てられることなくとも輝いている。<br /><br />
　昨晩の少年を黄昏とするなら、その少女は夜明けと云えた。<br /><br />
　訪れる闇ではなく明けゆく闇。<br /><br />
　どこか似ていながらどこまでも異なるもの。<br /><br />
「あなただあれ」<br /><br />
　それでも彼には一目でわかった。間違いようが無かった。<br /><br />
「ふざけないでくれ。昨日会ったろう」<br /><br />
　海よりも空よりも、その紺碧は違って深く澄んでいる。<br /><br />
「昨晩とはずいぶんと違う格好をしているな。見違えたぞ」<br /><br />
「誰よ、あなた」<br /><br />
　彼が一歩近づくと、怯えたように少女は一歩後退った。<br /><br />
「&hellip;&hellip;そういった遊びにつきあう気はない。わかっている。お前は昨晩会ったあの少年だろう。昨晩の格好も良かったが、その姿もなかなか似合っているぞ」<br /><br />
　少女はしばらく押し黙り、怯えた瞳を彼に向けるのみだった。<br /><br />
　怯えは正真正銘のものにも思われたが、彼は己の感覚を疑わなかった。<br /><br />
　ややもすると、少女は昨晩の少年よりは明らかに一段高い、少女の声で笑った。<br /><br />
「つまらないわ、ちっとも引っ掛かってくれないなんて。少しは騙されてくれてもいいじゃない」<br /><br />
　ころころと、まるで何も知らぬ無垢の者のような笑いだった。<br /><br />
「よく来たわね。そんなに恋人の仇が知りたいの。それとも魔道に取り憑かれでもしたのかしら」<br /><br />
　答えず彼は少女に近づいた。<br /><br />
　触れられるほど近くに寄ると、やはり少女は彼より頭一つ分ほど小さかったが、それでも昨晩より少しだけ顔が近くにあるように感じられる。<br /><br />
　足元に目を映すと、それも道理で少女は高いヒールを履いていた。彼の視線に気づいたのか、少女は云った。<br /><br />
「私、こういうのってあまり履いたことがなかったんだけど、なんだか変な感じね、コレ。歩きづらいわ」<br /><br />
　そう云うと少女はヒールを脱ぎ、裸足になった。<br /><br />
　脱ぐ瞬間、その肌の白さに思わず彼は見惚れたが、それはすぐに幾重のレースのスカートの下に隠された。<br /><br />
「&hellip;&hellip;裸足では冷たくないか」<br /><br />
「冷たいわよ」<br /><br />
　少女は優雅に可愛らしい仕草でスカートを少しだけ持ち上げた。するとレースはしかめっ面の天使を浮かび上がらせ、その下に子供のように小さな足があった。<br /><br />
　空はふるような満天の星空、磨き上げられたように滑らかな外見の、大理石であろう床は磨き上げられたその分だけ冷たそうで、彼は少女の小さな白い足が震えているのを見た。<br /><br />
　彼は少女に近付き、顔を見た。<br /><br />
　細いおとがい。<br /><br />
　肌が白いためか異様に目立つ唇の紅。<br /><br />
　瞳の色は彼を魅了して止まぬ、あの紺碧。<br /><br />
　視線は夢見るようにどこか定まらない。<br /><br />
　ヒールを脱ぐとそれらは昨晩よりもいくぶん低い場所にあった。<br /><br />
　彼は何も云わず少女の腰に手を回し、胸の前で抱きかかえた。少女が冷たいと云ったから。<br /><br />
「優しいのね」<br /><br />
　少女は云ったが、その視線はやはり彼を見ているようでその向こうを見ているようでもあり、彼は少し戸惑った。<br /><br />
「行きましょう。その扉を出て」<br /><br />
　少女に云われるままにいましがた入ってきた扉を開けると、そこには彼がのぼってきた暗闇の螺旋階段はなく、窓一つないのに月光に――いや、それは月明りにしては明るすぎたかもしれない――照らされた長い回廊があった。<br /><br />
　突き当たりに小さな扉が見える。<br /><br />
「行きましょう」<br /><br />
　立ち止まった彼に、少女が再度促した。彼は少女を抱きかかえたまま歩き出した。<br /><br />
　回廊は長かった。長いこと二人は何も云わず、少しづつ向こうの扉は近づいてきたが、まだずいぶんと小さい。<br /><br />
　窓一つなく、かといってほんの少し視線を落とせばすぐそこにある少女の顔が見れず、彼は前を向いたまま歩を進めた。<br /><br />
「&hellip;&hellip;何もないな」<br /><br />
　これほど明るいのに、あかりとりになるものすら何も。<br /><br />
　腕の中で少女が笑った時のように少し体を震えさせる。<br /><br />
「退屈なの？　じゃあ景色でも見ましょうか」<br /><br />
　少女が云ったとたん、彼は空中に立っていた。<br /><br />
　そこは上空の高み、聖都エイルナードを遙か見下ろす天に近き場所であった。<br /><br />
　左右に続いていた壁はおろか、天井や床まで完全に消失し、彼は天使のように泰然と宙に浮かんでいた。背に翼は生えていなかったが。<br /><br />
　あまりに高いため――星が近いと彼は思った――彼からはそこにいるはずの人間の姿は見えない。<br /><br />
　大きな炎がそこかしこで焚かれており、周りで大きなゆったりとしたうねりのようなものがあった。それは大勢の人々の祝い騒ぐさまであるらしい。<br /><br />
　見渡す限り聖都のどこもがそのようなさまだった。喧噪や細々とした人々の営為とそのものは彼まで届かなかったが、人々の熱気は遙か上空にまでたちこめるようで、彼は息苦しさを覚えた。<br /><br />
　それを振り払うように、彼は云う。<br /><br />
「&hellip;&hellip;どちらが、本当のお前なんだ」<br /><br />
　昨晩の少年と、いま彼の腕の中にいる少女と。<br /><br />
「どっちだと思う」<br /><br />
　少女はまた楽しげに笑っている。彼は視線は落とさず、ほんの少しだけ少女を抱く腕の力を強めた。<br /><br />
　少女は軽かった。少女の背にこそ翼でも生えているかのように。<br /><br />
　だが軽くとも彼の腕の中にある温もりや触れた指がそのままどこまでも沈み込んでいくような肌の柔らかさは紛れもない現実で、昨晩触れた少年の触れるもの全てを弾き返すような――それでいて少年はあらゆるものを誘うように蠱惑的であったのだが――あの肌の張りとはまるで別物であった。<br /><br />
　しかし、いましがた思い起こしても、少年の肌はまざまざと蘇り、現実であったとしか思われない。<br /><br />
　彼は首を振った。<br /><br />
「わからない。いまのお前も昨晩のお前も紛れもなく現実で、なのにどこか不確かだ。いまこの腕に抱いているときでさえ確かでない。しかしどちらも美しい」<br /><br />
　少女は彼の首に腕を回し、そしてまた笑った。<br /><br />
「確かなものなんて、どこにあると云うの」<br /><br />
　やがて扉の前に着いた。<br /><br />
　彼の背丈の倍ほどもある、真新しい鋼鉄の扉。<br /><br />
　それは、やはり軽く触れるだけで自然と開いていった。<br /><br />
　部屋は丸かった。<br /><br />
　円ではない、球だ。そして四方は真白い。<br /><br />
　少女は彼の腕の中から軽やかに下りると、その球の中に歩を進めた。目には見えぬが確かに床があるようで、少女は球のちょうど中心辺りまで進むと振り返り手招きした。彼はそれに従った。<br /><br />
「ねえ」<br /><br />
　少女の声が甘えるような色を交えた。<br /><br />
「どうしても知りたいんでしょ、あなたの恋人の仇」<br /><br />
　彼は答えなかった。自身でも答えが分からなくなっていたので。<br /><br />
「私、ちゃんと調べておいたわよ。&hellip;&hellip;でも教えてあげない」<br /><br />
　少女はすねたようにふいと彼に横顔を見せた。ひょうしに少女の小さい耳朶が銀の髪の隙間から覗く。<br /><br />
「なぜ」<br /><br />
　少女は答えない。彼は沈黙から逃れるためだけに言葉を続ける。<br /><br />
「教えてもらえば、それ以上は何も望まぬのに。復讐を手伝えなどとも。それに魔道とは知る力であって、外界に直接干渉する力ではないのだから、これ以上の助けは求めようもない」<br /><br />
「あら。それはずいぶんとした思い違いね」<br /><br />
　少女は心底心外そうな顔をした。<br /><br />
「魔道の力はただ知るだけではないわ。その気になれば、ここにいながらにして世界を変えることだって可能よ」<br /><br />
「&hellip;&hellip;しかしあの老魔道士は」<br /><br />
「あのお爺様、嘘ばっかり云うのだもの。いいわ、見せてあげる」<br /><br />
　少女は肩のところまで右手を上げ、軽く振った。<br /><br />
「エフ。セイランを」<br /><br />
　すると、ただ真白いばかりであった周囲の壁全面に、緑のない草原が映し出された。<br /><br />
　平原の中心に広がる《白の草原》だ。<br /><br />
　遠くに、高く巨大な門がある。あまりに巨大すぎてその足元に蠢く羽虫のごときものが幾百の騎馬であることにしばらく気がつかぬほどの巨大さの門だ。<br /><br />
　直接見たことはなかったが、彼はそれを知っていた。<br /><br />
　軍事国家セイランの防衛の要〈ガダーズの門〉六つの翼を持つ天使の名の、セイランの象徴とも云える建造物だ。<br /><br />
　いま初めてその偉容を目の当りにし、彼はしばし息を呑んだ。<br /><br />
「〈ガダーズの門〉がある限りセイランは不滅である」と時の王が云うのも無理からぬ、そう思える光景だった。<br /><br />
「エフ。虚像を十年前に」<br /><br />
　少女の声に、音もたてず景色が一変した。<br /><br />
　無数の羽虫が門から吐き出されていた。巨大な偉容を埋め尽くすほどの幾千幾万、あるいは幾十万の羽虫。<br /><br />
　それらはすべて騎馬部隊であった。<br /><br />
「これが十年前、イルナーへの侵攻を目論んでいた頃のセイランよ」<br /><br />
「&hellip;&hellip;なるほど。平原最強の軍事国家と云われていたのもうなずける」<br /><br />
「この当時のセイランに軍事力で勝つことなんて不可能だったでしょうね。でも、セイランはイルナーを侵そうとしていた。戦わなくてはならない。でも戦えば絶対に負ける。だから、お爺様、先代の塔の主である魔道士は考えたのよ。戦わずして勝つ方法を」<br /><br />
　少女の言葉に従い、まるで絵物語のように周囲の映像は次々と変わっていく。<br /><br />
　毅然と立ちそれらを受けながら少女は語り始めた。<br /><br />
　その姿はまさしく天使のようであった。闘争の天使長ラーゼグィードのよう。<br /><br />
　少女の云うところはつまり以下のようであった。<br /><br />
　いかに統制された組織と云えどどこかに綻びというものはある。魔道の力を使ってまず徹底的に敵を調べ上げ、その綻びを知り、それを利用する。<br /><br />
　セイランには二つの派閥があった。王と、大将軍である王弟との二つだ。<br /><br />
　あるとき王は夢を見た。<br /><br />
　王弟が己の王位を纂奪する夢だ。<br /><br />
　それが真実となるのを恐れ、王は弟を疎んだ。<br /><br />
　疎まれたゆえに王弟は身の危険を感じ、己の軍を一つ所に集めた。〈ガダーズの門〉に。<br /><br />
　王はそれを叛意ととった。<br /><br />
　そしてセイランに肉親同士による内乱が起こったのだ。<br /><br />
「後はあなたの知っての通りよ」<br /><br />
　築いた王の言葉通り、〈ガダーズの門〉は陥ちなかった。<br /><br />
　王位は纂奪されたのだ。王の見た夢の通りに。<br /><br />
「その夢を見せたのが、魔道の力。くだらない、ただの夢をね。もともと王は有能だけど弟であると云うだけで王位に就けなかった弟を恐れていた。だからくだらない夢がそれだけの効力を発揮した」<br /><br />
　内乱でセイランの国力は三分の一以下にまで低下し、以後〈ガダーズの門〉が開かれたことはない。<br /><br />
「でも、そうすると今度はフォトキアが厄介だった。狂える指導者ガルズァークがおとなしくしていたのはセイランが怖かったから。セイランが衰えれば怖れるものなんてない」<br /><br />
　セイランの内乱以後、フォトキアは猛然と侵攻を開始する。<br /><br />
　まずは南、シェムス連合に。だが陸戦を想定されたフォトキアの狂気の軍、鬼兵隊はシェムス連合の大船団に海戦で大敗を喫する。だが、シェムス連合は大勝にも関わらず、不運にもこの戦いで大総督ドゥリズを失うことになる。<br /><br />
　フォトキアはシェムス連合をくみしがたしと見ると、その狂気の矛先をリンクラウドへと向けた。これによりリンクラウドは長年の確執を捨てイルナーと休戦せざるを得なくなる。<br /><br />
　開戦時のフォトキアの兵力は実にリンクラウドの三倍、だがリンクラウド王ダルケスはそれをよく防ぎ、時にはフォトキアに攻め入りすらした。<br /><br />
　こうして十年にも及びいまだ膠着状態の続くフォトキアとリンクラウドの百年戦争は始まったのだ。<br /><br />
「これでリンクラウド、フォトキアの両方を封じて、それで一安心、て云うわけにはいかない。陸が塞がっていても、海路があるから」<br /><br />
　平原最大の海軍、シェムス連合の大船団。フォトキアの鬼兵隊すら打ち破ったそれが、海よりイルナーに迫ってきた。<br /><br />
「でもシェムスって、せっかくの共和制連合国家なのに、重要な職は結局世襲制。馬鹿みたい」<br /><br />
　英雄の子が英雄であるとは限らない。大総督ドゥリズは確かに一大の傑物であった。<br /><br />
　だがその子トゥーラードはおよそ父に及ばぬ凡庸な人物に過ぎず、しかもまだ年若かった。<br /><br />
　しかしドゥリズの幻影を求める人々はトゥーラードを大総督とし従った。それが間違いであった。<br /><br />
「もっとも、そうするように仕向けたのはお爺様だったみたいね。ドゥリズは戦乱のどさくさに紛れて暗殺されたのよ。お爺様の仕向けた魔道でね」<br /><br />
　トゥーラードはあらゆる指揮を誤った。<br /><br />
　己の後ろに父ドゥリズを見る人々が誤らせたのかも知れない。<br /><br />
　巧妙に配されたイルナーの海軍との接触を避けるうち、大船団はある海域へと導かれていった。<br /><br />
　イルナーに住まうものならば誰でも知っている、一年に幾日かだけ大嵐の吹き荒れる、魔の海域へと。<br /><br />
　怖れず戦えば良かったのだ。シェムス連合の大船団にかなう海軍など存在しないのだから。でなければ、最初から戦う気など起こさなければよかったのだ。<br /><br />
　いずれにせよ、大船団はドゥリズの幻影とともに、自然の猛威の前に壊滅し、哀れな凡夫トゥーラードもまた若くしてその命を散らすこととなったのだ。<br /><br />
「これがイル・サイナスの名声を高めた奇跡の一年の内実というものね。聖王陛下は、神ならぬ魔道に守られていたって、そういうこと」<br /><br />
　それが、話の締め括りであるらしく、闘争の天使長ラーゼグィードのごとき厳しく世界を見通したような視線は、不意に和らぎ無邪気な美しい笑みを彼に向けた。<br /><br />
「どう。魔道の力がわかった」<br /><br />
「そう&hellip;&hellip;。そうだな。確かにいくばくかの干渉力というのはあるようだ」<br /><br />
　慎重に答えながらも、むしろ少女の笑みに彼の心は高ぶった。<br /><br />
「だがいまの話では実際に魔道の力が行使されたのはごくわずかであったようだが。セイランの王に夢を見せ、シェムス連合の大総督ドゥリズを暗殺しただけの」<br /><br />
「それ以上する必要がないと判断したから　魔道による必要以上の干渉は、摂理を歪めてしまうから。それに、わかっているの？　暗殺ってつまり、人を殺せるのよ魔道は」<br /><br />
「&hellip;&hellip;どのように」<br /><br />
　彼の問いに、少女は美しい声で笑った。<br /><br />
「教えられないわよ。魔道の秘中の秘だもの。まったく、何でこんな話になったのかしら。――そう、あなたに恋人の仇を教えられないって話だったのよね」<br /><br />
「なぜ、教えてもらえない」<br /><br />
「教えても意味がないから。あなた、仇討ちはできないわ」<br /><br />
　そう云われても、いまとなっては（やはりそうか）と思うばかりで、彼の心にはさざ波一つたちはしなかった。<br /><br />
（あれほど深く愛したと思い、しがみついていたフェミナ・ハイアッドがいまはなんと遠いのだろう。わずか二日ばかり前にはあれほど燃えたぎった血がいまはなんと冷め切ったことか。まるで月の光のように）<br /><br />
「わかった」<br /><br />
　淡泊に彼は云った。<br /><br />
「フェミナの仇討ちは諦めよう」<br /><br />
「そう&hellip;&hellip;それではさようならね。もうあなたがここにいる理由はないから」<br /><br />
「いやだ」<br /><br />
　彼は強い意志を込めて首を振った。<br /><br />
「それはいやだ。断る。俺はまだここにいる。ここにいたい」<br /><br />
「何故。仇討ちは諦めたのでしょう」<br /><br />
「お前が無理だと云うのなら諦めよう」<br /><br />
「では何故」<br /><br />
　少女の瞳が偽りでなく怯えているように見えたのは、彼の錯覚であったろうか。<br /><br />
　彼は告げた。さきほどよりも、更に強い意志を込めて、しかし静かに。<br /><br />
「お前のそばにいたいのだ」<br /><br />
　それはあまりに陳腐で、フェミナに愛を告げたときよりも穏やかな言葉であったが、彼にはそれ以上に云う言葉を見つけられなかった。<br /><br />
　あまりに強い感情は、時に言葉を殺してしまうのだ。<br /><br />
　率直に飾りもなくそのままを云うほかに、何もできなくなる。<br /><br />
「お前が好きなんだ。――愛している」<br /><br />
　なんとつまらぬ言葉であったろう。<br /><br />
　幾百年の禁忌に封じられた魔道の塔。<br /><br />
　遙か遠くや過去を映し出す怪しげな魔道装置。<br /><br />
　それを操る少年であり少女であるあやかしの者。<br /><br />
　それらの異常性の中で、なんと彼の言葉は普通でありふれているのだろう。<br /><br />
　だがそれしかないのだ。彼の云いたいこと、彼の告げたいことは。<br /><br />
（所詮俺は凡人なのだ。この世の神秘より、真実の歴史より、俺はただ己の感情がもっとも大切で、それにかまけて全てを無駄にしてきたし、いままたするのだろう。フェミナのために一月余りも己を捨て、いまこの少女――あるいは少年の前にその妄執すらいともたやすく投げ出すのだ。フェミナ・ハイアッドをすら）<br /><br />
「お前が欲しい。そして永遠に手離したくない」<br /><br />
　彼の言葉はいたって静かであったが、このうえもなく強かった。<br /><br />
　彼は少女に近づいた。少女は長いまつげを伏せ瞳を閉じていた。<br /><br />
「あなたが愛しているのは私？　それとも&hellip;&hellip;」<br /><br />
　瞳を閉じたまま少女は彼の左脇を通り過ぎていく。<br /><br />
　純白のドレスの裾が床にする微かな衣擦れは、彼の周りを円を描くように動く途中、彼の真後ろで貴金属の触れあう澄んだ音に変わった。<br /><br />
「僕？」<br /><br />
　右脇を通り抜けて彼の前に姿を現したのは、あの少年であった。<br /><br />
　限りなく細い、しかし痩せこけていると云う印象は決して与えずただ無駄な肉が極限まで落とされている、と云うか初めから無駄な肉などつきようのない、とでも云いたくなるような細身の体に、ほかでは見ることの叶わぬ巨大な宝石をちりばめた指輪や腕輪、首飾りに足輪を全身いたるところに身につけたきらぎらしき姿は、紛れもなく昨夜彼が見、そして魅了されたあの少年の姿態である。<br /><br />
「どちらも。どのような姿をとろうと関わりなく」<br /><br />
　少年は左の手首を振り、三重にはめられたプラチナの腕輪をしゃらんしゃらんと二度鳴らした。<br /><br />
　すると辺りは星空になり、二人は星空の中にいた。<br /><br />
　少年の身に付けた宝石、ルビーやサファイヤ、エメラルドやパールはそれ一つ一つが星のようであった。そして少年は輝く星を集めた銀河であるのだ。<br /><br />
（星が足りない）<br /><br />
　ふと彼は気づいた。<br /><br />
　思いつく限りのいたる場所に宝石の飾り付けられた少年のからだに一部分だけ何もつけておらぬ場所がある。<br /><br />
「耳飾りはないのか」<br /><br />
　少年は笑った。<br /><br />
　少女の無垢な笑いでなく、黄昏時を思わせる妖しく誘いながらその底にひとすくいの悲しみを含んだ笑い。<br /><br />
「ないんだ。この塔のどこにも、耳飾りだけは」<br /><br />
　かれの懐から白銀の耳飾りが取り出された。<br /><br />
　四つの翼を持つはかなげな表情を浮かべる天使、アルパーダの耳飾り。<br /><br />
　フェミナ・ハイアッドのために用意され、しかし誰の物にもいまだなったことのない耳飾り。<br /><br />
　彼はそれを差し出した。<br /><br />
　少年は笑ったまま「つけて」と云った。<br /><br />
　少年の頬は月の光を塗り込めたように冷たかったが、少年の耳朶は温かかった。<br /><br />
　彼はいささかてこずりながら少年の両の耳に天使をつけ、頬を一撫で、金と銀の交じった髪を一撫でしてから一歩後ろへと下がった。<br /><br />
「似合わないな」<br /><br />
　彼は苦笑した。<br /><br />
「そう？　僕は気に入ったけど」<br /><br />
　少年は彼の目の前でくるりと回った。<br /><br />
「似合わないかな」<br /><br />
　くるりと回ると、そこに立っているのは少女だった。<br /><br />
「いや、似合っているよ。そっちの姿なら」<br /><br />
　少女は今度は無垢に笑った。ドレスに浮かび上がった模様は少年の笑みだった。<br /><br />
　少女は夢見る瞳でうっとりと告げた。<br /><br />
「ねえ、今日の昼間の聖王の話は聞いたかしら」<br /><br />
「ああ、ギルアス様の遺児が見つかったとか。これで聖王家は安泰であると」<br /><br />
　ふふふ、と夢見る口調で少女は笑い、云う。<br /><br />
「そんなはず、ないでしょう。ギルアス・ロードの遺児だなんて、いるはずないじゃない」<br /><br />
「&hellip;&hellip;あの老魔道士が命を賭して捜したのではなかったのか」<br /><br />
「だから、捜したのは適応者。ギルアス・ロードの子だと云ってもあまり疑惑を呼ばず、また王族に足る資質を持つ人間、お爺様が捜したのは、それよ」<br /><br />
「では、あの子はギルアス様の血を引くものでは&hellip;&hellip;」<br /><br />
「当たり前じゃない。そんなもの、いるはずがないし、それにもしいたとしても」<br /><br />
　不意に、姿は少女のまま、声だけが少年のものとなった。<br /><br />
「あんな奴の血を引く者が、王族に相応しいわけがあるものか。あんな汚らわしい、獣の血を引くものが」<br /><br />
　限りなく強く、確かな憎しみの込められた言葉であった。<br /><br />
「知っているかい。いや、知らないはずだよね、もう僕のほかには誰も知らないことなのだから&hellip;&hellip;。あいつはね、ギルアス・ロードは獣なんだよ。いつも血に飢えて、戦場を遊戯場か何かのように楽しんで、国を守るためなんてとんでもない、あいつは自分が楽しむためだけに戦争をする、していた。そのうえあいつは&hellip;&hellip;あいつは」<br /><br />
　少年の声をした少女は云い淀んだ。<br /><br />
　だがそれは云い難いからではなく、あまりにも大きい憎しみを一時に吐き出そうとしたために言葉が喉に詰まっただけ、とでも云うように、続く言葉は鋭く速かった。<br /><br />
「ギルアス・ロードは実の弟をすらその毒牙に掛けた。殺したのならまだいい、奴は実の、それは確かに別腹ではあったけど、それでも同じ父の血を引く実の弟を、犯した。&hellip;&hellip;犯したんだよ、あの獣は。――呪われている、奴は、ギルアス・ロードは聖王家にあるまじき呪われた者だ。だから、だから私は&hellip;&hellip;」<br /><br />
　少女の姿をした少年は何かを告げた。<br /><br />
　それはとても恐ろしい言葉であったのかもしれない、憎々しげに歪んだ唇は整っているだけに凄惨に見えた。<br /><br />
　しかし、彼はその唇が何かの言葉を形作るのを見たばかりで、耳には何も届かなかった。<br /><br />
　少女の目が不安げに見開かれる。<br /><br />
「エフ&hellip;&hellip;もう少しだけ、もう少しだけ&hellip;&hellip;」<br /><br />
　少女の言葉は何を意味していたのか、それは彼に向けて発せられたものでなかった。<br /><br />
　辺りから突如星空は奪われ、白い壁すらなくなりまったくの暗闇に彼は立ち尽くした。<br /><br />
「そう&hellip;&hellip;やっぱり、そうなんだ&hellip;&hellip;」<br /><br />
　声の主の姿は暗闇に紛れ見えず、呟きは少女のもののような少年のもののようなどちらともとりがたい響きを持っていた。<br /><br />
「ねえ&hellip;&hellip;明日&hellip;&hellip;。明日またね」<br /><br />
「帰れと云うことか」<br /><br />
　うん、ともううんともつかぬ曖昧な返事だけが帰ってくる。彼はうなづいた。<br /><br />
「わかった。明日、必ず」<br /><br />
「うん、さようなら&hellip;&hellip;ねえ、知ってる？&nbsp;神の庭に入ったものには、天罰が下るんだ。神様の罰が。死んじゃうんだよ」<br /><br />
　何故突然少年――あるいは少女がそのようなことを云い出したのかわからず、彼は困惑した。だがそれについて考える間もなく――<br /><br />
　次の瞬間彼は墜落していた。</p><br />
<p>　とても長い墜落だった。<br /><br />
　天上より人の世に降り立った英雄神リクリスの味わった大いなる墜落とはかくのごときものであろうか、という。</p><br />
<p>　始まったときと同様に、突然墜落は終わった。彼は兵舎の、自室の前に立っていた。<br /><br />
　しばらくは、呆然とそこに立っていた。だが夢から覚めたように、彼は現世の厄介事を思い出した。振り払ってきたディズラッド・アーリーンのこと、最後に背中に投げられた言葉。<br /><br />
（どこへでも行け、呪われろ）<br /><br />
（いるだろうな、ディズ）<br /><br />
　思いながら彼は自室の扉を開けた。<br /><br />
　はたしてそこにディズラッド・アーリーンはいた。<br /><br />
　心臓とその反対の胸と、喉を切り裂かれ、いまだあふれ続ける血の海で待ちくたびれたように膝を折って、ディスラッド・アーリーンはそこにいた。。<br /><br />
（ねえ、知ってる？　神の庭に入ったものには、天罰が下るんだ。神様の罰が。死んじゃうんだよ）<br /><br />
（そうか、昨日の朝、ディズは神の庭に足を踏み入れていたのだったな）<br /><br />
　ディズラッド・アーリーンの瞳は虚ろに開かれたまま薄闇を見つめて止まっている。<br /><br />
　何を見ているのだろうか。開かれた口は何を云おうとしていたのだろう。<br /><br />
　得られるはずのない答えを思いながら彼はディズラッドの見つめる闇を見た。<br /><br />
　闇は次第に薄れていく。<br /><br />
　夜が明けるのだ。<br /><br />
　聖王大祭は六日目を迎える。祭典はいよいよ最高潮を迎えようとし、その向こうにあるありふれた日常を人々はかすかに思いながら、それを打ち払うため熱狂はいよいよ高まっていくのだ。</p><br />
<p>&nbsp;</p>]]></content:encoded>  
    <dc:subject>聖王大祭</dc:subject>  
    <dc:date>2008-03-04T11:21:31+09:00</dc:date>  
    <dc:creator>うなぎ</dc:creator>  
    <dc:publisher>NINJA BLOG</dc:publisher>  
    <dc:rights>うなぎ</dc:rights> 
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